味覚の秋 |
秋は食べ物が美味い季節。 とりわけ猛暑の長い夏が終わり、朝夕の大気が涼しく感じられてくると、それまでぐった りと萎えていた五臓六腑に生気が蘇り、なおさらに食べ物が美味しく感じられてくるよう だ。 今年の異様な酷暑の日々に疲弊し切った私にとっては、まさに天の恩寵とも言うべき季節、 「天高く馬肥える秋」なのである。 秋は、春と夏に生成・成長した穀類や野菜や果物や魚介類などが、一斉に成熟して収穫さ れる季節。色々な味覚がお店の棚に並ぶようになる。今年は高値の物が多すぎるのも異常 だが。 秋ならではの味覚は、たくさんある。 まさか「好きな、秋の食べ物は何?」と聞かれて「カレーライス」とか「ラーメン」「秋 でも夏でも、一年中好き」とズレた回答をする人はいないだろうが、「秋ならではの、好 きな食べ物は何?」と尋ねたほうがわかりやすいだろうか。 それでも現在では「どれも一年中食べられるものばかり。近頃のサンマなんて脂がのって おらず、細身ばかりで美味くない。だから『秋の』という言葉は、もう死語だ」と答えて もハズレではないかも。 食べ物の世界でも、明確な四季の旬の食べ物を分類することが、難しくなってきたようだ。 それでもあえて、一般的な秋の味覚をあげるとしたら。 魚ではサンマ。穀物では新米。野菜ではサツマイモ、カボチャ、松茸。落花生。果物では 柿、ブドウ、梨、栗といったところだろうか。 私が秋の味覚として好きなものは、「寿司」の「こはだ・小肌」の握りをあげるだろう。 コハダは、コノシロというニシン科の出世魚(注・成長と共に呼び名が変わる)で、シン コ(新子)→コハダ→ナガツミ→コノシロとなる。 7月中旬から夏の終わりごろまでの短期間に出回る、コハダの稚魚であるシンコが柔らか くて美味いが、小さいので1貫の握りにするには3枚ほど使う。入荷時期が短く、漁獲量 も少なく、値段も張る。 したがってシンコを入荷出来ていない店も多く、あっても品数が限られる。 その点、シンコがやや大きくなったコハダは、産地をずらせば長期間の確保が可能で、冬 が過ぎてから夏の終わり頃までの時期をはずせば(注・冷凍保存したネタを出す店もある が)、だいたい何処の寿司屋でも食べられる一般的な寿司ダネである。 その美味いコハダが出回り始めるのが秋。 言うまでもないが、寿司ダネのコハダは、市場から仕入れてすぐに、新鮮なうちに塩と酢 で締めるのだが、まさに寿司屋の真骨頂であり、実力が示される仕込となる。 この塩と酢の塩梅(あんばい)により、コハダの味覚が決まる。 寿司屋でコハダを食べて「うまい!」と感じられる店は、まず良い寿司屋と言っていいだ ろう。 このように、私が好きな「秋の味覚」として、第一にコハダをあげたのだが、このコハダ が美味いのは、やはり秋からの季節。旬の素材で新鮮な美味さは格別。食感と旨味が違う。 だから、秋が来ると「寿司屋に行ってコハダを食べたい」と思うのだ。 ここから余談になるが。 コハダというと思い出すのは、十数年ほど前の寿司屋での出来事。 この寿司屋が、世田谷区の閑静な住宅街の一角に数週間前に開店していたことは、既に承 知していた。 古いビルの1階のほんのわずかな部分を改築し、ファサード(店の正面玄関側)一面を、 黒い板張りにし、白い小さな暖簾がかかった小体(こてい)な店構えだった。 私は、「店内は狭くカウンターだけの間取りで、店主とカミさんの二人で経営している店 だろう。客の数より、上品な客狙いの店だろうから、単価はやや高めで、寿司を8貫程度 に酒を2、3本で一人2万円前後か」と予測して、飛び込んだ。 予測は当たっていた。 L字型のカウンター前に、白い背カバーに覆われた椅子が5席並んだだけの、小奇麗な店 内。カウンター内には白い割烹衣姿の、丸刈りの頭をした40代前半とおぼしき店長が 「いらっしゃい!」と、威勢のいい声を上げ、何かを握っていた。 私は、L字型のカウンターの横の席に座った。 ここの席は、店長の巧みな手作業が見え、他の客と距離が置けるから好きなのだ。 正面のカウンター席には、年配の夫婦らしき二人が先客として座っていた。 奥から店主のカミさんらしき女性が、御茶と白い大きな熱々のおしぼりを運んでくれた。 私はおしぼりを顔に当ててから「日本酒の熱燗を1本ください。それと刺身はいらないか ら、すぐにコハダを握ってもらおうかな。それに卵焼きをつまみで」と頼んだ。 それからは、コハダの握りを連続して注文し、やや熱燗にしてもらった日本酒を飲みつつ、 初対面の店長と他愛のない話をしていた。 店長の応対には、まだ素人っぽい硬さが感じられたが、それでも店内は穏やかな雰囲気だ った。 時は1時間ほど流れただろうか。 酒は3本飲んでいた。 腹はだいぶ満足してきた。そろそろ引き際だと思った。 そこで「最後に、またコハダを握ってもらおうかな。 あまりコハダばかり頼むのは、マナーに反するけど、コハダが大好きでね。でも無くなっ たら、あとの客に悪いしな・・」と弁解がましく頼むと、店長は「いえ、大丈夫ですよ」 と少し笑いながら答えてくれた。 すると、先ほどから正面の席で夫婦(?)でのんびりとビールを飲みながら寿司を食べて いた年配の男性客が、待ってましたとばかりに、斜め横の私に顔を向け、嬉しそうに話し 始めた。 「私もそうなんだよ。寿司屋に行くとコハダばかり頼んでしまうんだ。 前に行った店では、店の人から、もうありませんと怒られてしまったよ」と言って、隣の 夫人と一緒に思い出し笑いをした。 私も「そうですか!私と同じなんだ。それを聞いてほっとしましたよ」と、笑ってしまっ た。 私は、入店した時から年配客の横顔をチラチラと盗み見し「あの人じゃないかな・・」と 予想していたが、正面からみた顔で「やはり」と確信した。 年配客は当時、大手精密機器メーカーとして躍進していたキャノン株式会社の社長や、経 団連会長などの要職に就いた御手洗富士夫氏だった。 私はあえてそれには触れず、他愛のない話を交わした。彼は確か、コハダを数十貫は食べ ると言っていた。 いま調べると、氏は私より一回り上(12歳上)だから、今年は88歳の米寿だろう。 あの気迫と体つきから推察すると、今でもあちこちの寿司屋で、コハダを総なめにしてい るのかも知れない。 そう想像しただけで、こちらも食欲がわいてくる。 「悔いなく食いな」(注・私の造語)の味覚の秋は、いよいよ本番です。 それでは良い週末を。 |