東井朝仁 随想録
「良い週末を」

晩秋に想う

日々の時間が、夕空に浮かぶ雲のように、ひそかに流れ去ってゆく。
風のない日の天中に、今さっきまでまんじりともせずに浮かんでいた秋の雲が、少し目を
離している間に、すでに「つるべ落とし」に暮れて行く茜空の際(きわ)まで流れている
ことに、とても驚かされることがしばしばある。
悠久の時の流れも同様。
それは1週間の時の経過から実感される。

先週の週末エッセイをHPに記載したのが11月16日(木)。
翌日以降、三重のT氏や多摩のN氏から丁寧で正鵠を得た感想メールをいただき、先の日
曜日には大阪のU氏から、特にエッセイのリード(前置き)文(注・配信希望者に送信)
のメールに対する感想文を頂いた。
これらに対する返信メールを書くのも楽しみの内だ。

今回のリード文は「小学校高学年頃から、当時の三橋美智也や美空ひばりなどの歌謡曲を
ラジオで聴いていたが、現在は殊更(ことさら)に春日八郎の「赤いランプの終列車」や
「ごめんヨかんべんナ」とか、フランク永井の「君待てども」や「夜霧の第二国道」など
の歌が好きで、ユーチューブで聴き、カラオケで歌っている。なぜか?心が安らぎ、当時
の様々な人との出会いや恋愛を中心とした、楽しくもセンチメンタルな想い出が蘇えり、
それが心を勇ませるからだ。
といっても、現代では若者はおろか、私と同世代の人たちも意外と知らない人が多く『誰
それ?』と言われるのがオチだろうが・・。
今のNHK紅白歌合戦は、ダンスグループばかりで、下手で意味不明な歌をキャアキャア
歌いながら踊る演芸をみても少しも感動しないので、ここ数年は全く観ていない」という
ことを送信していた。

するとU氏から「懐かしい「歌詞」の数々、やはり同世代の東井さんだなあ! と思いなが
ら読み進んだわけです。
そこで私が想い出したのは。
『柿の木坂は 駅まで3里
 想い出すなア 故郷のよお
 乗り合いバスの 悲しいわかれ』
と言う歌詞でした。
青木光一さんでしたか。一気に小学生時代の光景が目に浮かぶ、そんな時代を私も過ごし
てまいりました・・」という返信があった。
私は驚いた。
まさか、あまたある当時の歌謡曲の中から、私共が小学4年生の頃、1957年(昭和
32年)にヒットした青木光一の「柿の木坂の家」の歌詞が、U氏の脳裏に蘇るとは。
それも当時、私の住んでいた目黒区下目黒の家のすぐ近くに、彼の家があった。小さいな
がら瀟洒な洋館だった。
(注・当時は、私の知っている限りでは、青木光一、藤山一郎が、少したってからフラン
ク永井、宍戸錠、二谷英明・白川由美、一時は郷ひろみ夫妻、桂小金治、レオナルド熊な
どが家を構えていた。)

話はそれて。
今週の火曜日は、日帰りで佐久市にある私のセカンドハウスに行ってきた。
この行きの新幹線のホームで、混雑する乗客の列の横を通た時「東井さん、どうも!」と
マスクをした中年の男性に声を掛けられた。
私は誰かわからないが、「どうも・・」と一応言葉を返して離れた。
今度は帰りに、佐久平駅の切符売り場を出た時に、朝に東京駅で見かけた男性に似た人か
ら「東井さん!」と呼ばれたので、近づいて「どなたでしたっけ?」と伺うと、「僕です
よ、僕ですよ!」とマスクを外して仰るので、よく顔を見つめたら、少し前まで佐久総合
病院の副院長をしていた、地域医療・総合診療の俊英・北澤医師だった。
現在は佐久綜合病院本院での外来を受け持ちながら、週に何回かは(公財)伊豆保健医療
センターの地域ケア部の部長として、静岡県の伊豆の国市に主張で出かけている由。

私は帰りの新幹線の切符を、一台早めた列車に変更したのだ。
理由は無く、何となく時間があったので早めの発車に切り上げたのだ。
でもまだ20分ほど乗車には時間があった。そこで「喫茶店でも行こう。いやこの駅の売
店の待合ソファでカップ珈琲を買おう」と言って、改札口ヨコの店に入った。
彼の転身の理由や現在の佐久病院の状況などを矢継ぎ早に尋ねた。
お会いするのはコロナ自粛期間を挟んで5年ぶりだった。佐久病院も北澤医師も変化して
きたのだ。
「私の状況は・・」と、私が話始めると、「毎回エッセイを読んでますから、良く存じて
いますよお!」と大きな顔をにこやかにして言われた。
お互いに喋りまくって、再会を期して別れた。
私が乗車時間の変更をしていなかったら、会って居なかっただろう。
また、変更手続きが無く、サッと改札口を通過していたら気がつかなかっただろう。
それもお互いに、わずか1分ほどの行動のタイミングが合って。
私は、「これも運なのかもしれない」と思った。

今日も果てしなき宇宙の中の小さな地球の上で、様々な事が起こっている。
だが、ミサイルが飛ぼうが、大地震が起きようが、戦争が起きようが、そんなことなどは
全く関係なく、悠久の時間は静かに休むことなく流れ続ける。

そもそも「果てしなき宇宙」には、数多(あまた)の星が浮かんでいる。
例えば太陽系(注・恒星である太陽を中心に回っている星の群)の星が約5000個あり、
銀河系(注・太陽のような恒星の群)には約2000億個の 恒星がある。
すると銀河系だけでも約1000兆個の星があると言われている。
さらに、銀河系のような星の群が、宇宙には数千億個あると推定されているから、まさに
宇宙の星の数は「天文学的」な数字となる。
考えるだけで、眩暈がしてくる。

その中の、たった1つの星・地球。
その地球にある、現在で196か国(総人口約80億人)の中の一つ、日本(現在約1億
2000万人)という国に生まれ、育ってきた「私」と言う超微少な一人の命。その命が
ここまでよくぞ76年間も、絶えずに続いてきた。
これは人間として生を受けた者こそに与えられた、絶対的で奇跡的な運。
私はつくづくそう思うのである。

運(うん)。
「運が良い、運が悪い」というように使われる言葉。
運とは何か?
国語大辞典では「人の力ではどうすることもできない作用。巡り合わせ」
とある。広辞苑では「幸・不幸、世の中の動きなどを支配する、人知・人力の及ばないな
りゆき。まわり合わせ」とある。
私は大人になって年を重ねるごとに「運というのは、めぐり合わせだ」という気持が増し
てきた。
「これも、私の人生(生きている時間)のめぐり合わせなのだ」というように。
それは自分が「第2次世界大戦後の昭和22年10月1日に、日本の、東京都目黒区に住
む、東井という家の、次男として、五体健全に生まれた」という事実を考えても、そこに、
出生の時・国・地域・両親・家族内の位置・肉体(DNA)の6種類の運命を痛感する。
「敗戦から立ち直って社会が落ち着いてきた戦後10年頃だったら。戦勝大国のアメリカ
だったら。常夏のハワイだったら。大地主の富豪の家の子だったら。女の子で長女だった
ら。すらりとした聡明な美形だったら・・・」
とは全く仮定しないが、6種類の条件のどれ一つでも現在と違っていたら、私の今の人生
は激変していたのだ。

だが、すべての条件は、現在の私と言う人間には一番「有機的」に働いていると思う。勿
論「そのように結論付けなければ、後悔する。良かったと感謝することが大切」などと、
街に溢れている「幸せになるためのノウハウ本」の受け売りではない。
小さい頃から母親に言われていた言葉。
「なるようになる」「なるようにしかならない」「なってくるのが天然の法則」
こうした母の言葉を聞いて、私は何となく「割り切ること」「結果は天にまかすこと」と
思ってきた。
また、大きくなるにしたがって「諦観」という言葉を同時に浮かべていた。
「本質をはっきり見極めて、悟ること」とも解釈される。
また「達観」にも近い。「物事の心理を見通し、物事にとらわれないで、喜怒哀歓を超越
すること」と。
母はそんな気難しい事を言っていたのではないだろう。
「色々と考えて努力したらいい。あれこれと思い煩っても何も生まれない。
なるようになるだけ」と、至って楽観的にシンプルに言ったのだろう。
いずれにしろ、その人に与えられる状況を受け入れることも、また、変えていくことも、
切り開いていくことも、その人の心次第だということ。

「運が良いとか悪いとか言ってもね、運はどこにも転がっている。
でもそれを拾うのは、努力をした人だけに許される特権なんだわ」(林 望の小説「マー
シャに」集英社文庫から)
そのように、自分の心のままに現在の時間を精一杯努力して生きた過去が、その人の運に
なるのだろう。

でも、最近はこうしたことも一概に断言できない。
自分の運命は、自分の事だからだいたい想像できる。
だが、世界や日本の運命は10年前、20年前より、はるかにわからなくなってきた。ま
さに暗黒の時代の到来だ。
ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ自治区(ガザ地区のイスラム組織ハマス)
との悲惨な戦争、一般国民に対する容赦ない大量殺戮、こうした最悪の事態に対し、世界
のどの国も手を出さない(出せない)異常な世界。
様々な分野で国力が低下して、政治も経済も劣化し続け、社会の荒廃現象があちこちで現
れてきた日本。
世界や日本社会の運命は個人の運命も変えてしまう。
だが、幸運を招来させる処方箋は、誰も示せていない。
その間に、悠久の時は平然として流れ、地球上は混乱の一途を辿っていくのだろう。

色々と考えると、絶望的になります。
ここはとりあえず、母の言うように「なるようにしかならない」と思考を停止し、テレビ
で飽食番組かノー天気にきゃあきゃあ騒ぐワイドショウでも一瞥しながら、熱燗でも口に
含むことにします。

それでは良い週末を。