東井朝仁 随想録      
「良い週末を」     

17年前の追悼文(若月俊一氏)  
今回は、今から17年前の2006年(平成18年)11月に、JAグループの「文化連」
(日本文化厚生農業協同組合連合会)から発行された月刊誌「文化連情報」に掲載された
追悼文を、転載します。
題名は「慈愛の人・若月先生を偲ぶ」
若月先生とは、長野県厚生連・佐久総合病院院長だった若月俊一氏(享年96歳)のこと。

氏は、東大医学部を卒業後、当時は診療所のような小さな病院だった長野県厚生連立「佐久
総合病院」(1944年開設)に、1945年(昭和20年)に外科医長として赴任。翌
1946年(昭和21年)2月、従業員組合が結成され、初代組合長に若月先生が選出され
る。そして10月の病院の従業員組合の大会で、全員の無記名投票によって院長に推薦され、
長野県農業会会長と労働協約を締結(注・組合長は飯嶋氏に交代)し、院長に就任した。
就任後の翌年1747年には、いち早く「第1回病院祭り」や「第1回長野県農村医学研究
会」を開催し、さらに戦後の国内では初めての「病院患者給食」を実施するなど、以降毎年
のように、矢継ぎ早に「若月イズム」の新機軸を打ち出して行かれた(注・1952年に第
1回日本農村医学会総会が長野市で開催され、若月院長が初代会長となった)

若月先生は終生を「予防は治療にまさる」「農民とともに」をスローガンに掲げ、佐久総合
病院の職員と施設の両面の、質的向上・量的拡充に精力的に取り組まれ、佐久総合病院を我
が国でも誉(ほまれ)ある病院に育て上げられた。
そのような不屈な有言実行の実績値から、「佐久総合病院」の始祖である若月先生は「地域
医療の巨星」「農村医学の生みの親」と評されてきた。
そして、さらに私が瞠目(どうもく)した点をあげると、次の通り。

①優れた外科医・研究医であったこと。
(注・現場での診察や手術等の臨床を行うと共に、日本医学会総会や日本外科学会総会、日
 本農村医学会総会などで、脊椎カリエスや腸内寄生虫や農夫症等々の病理や治療に関する
 研究発表を多数行っている)
②たぐいまれな病院経営者であったこと。
(注・無医村や過疎地域における出張診療や巡回健診、地域住民の全村健康管理などの事業
 を先駆的に実施し、病院を挙げての地域保健・医療活動を展開する一方、都会の大病院に
 比肩する施設・設備の拡充を図り、救急や急性期医療の充実にも注力されたこと。結果、
 健全な病院経営を維持しながら、過疎の農村地域に国内でも屈指といえる大病院(病床数
 850床)を築かれた。
 若月先生は、かねがね「病院の経営がうまくできなければ、『運動』も展開できるはずが
 ない。赤字を出してはおしまいである」と言われていた。また、「患者に優しくしてやる
 ということが、医療や看護というものの本質である。私共の自分本位ではなく、患者本位
 こそすべてであるべきだ」と、病院に働く者の基本的精神を説かれていた)

だが、中には「若月先生は独裁的だ」と評価する人が、いなかったとは言えない。
想像するに、厳しい指導を受けた人や、そねみ(嫉妬)を持つ人、若月イズムが浸透する職
場文化に不満を抱く人などだろうか。
しかし何事においても、大事をなすべき有事の時の指導者は、自己の信念・ビジョンを示さ
ずに「私は全ての職員の声に耳を傾けながら、病院の運営をしていきます」などと定型的な
ことを述べていたら、それは単なる自己保身のための方便でしかなく、指導者として大事は
成せないと私は思う。
全てが出来上がった平時の状況だったら、それも良し。
だが、終戦後の荒廃した社会の中で、過疎地の弱小病院を生活が厳しい寒村の住民とともに
「持続可能な病院」に発展させていくには、余程の覚悟と自己犠牲が無かったら、不可能だ
っただろう。
特に「センチメンタル・ヒューマニズム」の若月先生は、自分の成すことに対するどんな批
評や妨害があっても、いわんや「独裁者」と言われても、自己の強い信念に基づいて「決断
と実行」を貫き通した指導者だったのでは、と私は述懐するのだが。
このような指導者に恵まれたからこそ、今日の佐久総合病院も、突き詰めれば我が国の地域
保健医療(及び介護福祉)の向上もあったのだ、と私は推察しているのです。

その若月先生が、2006年8月に96歳でご逝去され、その3か月後に、 文化連から依頼
されて書いた追悼文を、下記の通り転載します。
どうかご笑覧ください。
それでは良い週末を。