21回目の辞令交付 (再掲載)
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《 2004年2月6日 》 「101回目のプロポーズ」、というテレビ番組がありましたが、「20回目の辞令交付」 とはいかに。 これは、私が役所(厚生労働省)に勤務してこの方、人事異動の辞令を交付された回数。 厳密には、組織の改編に伴う名称変更や、同じ組織内の異動などは、カウントしていませ ん。 この20回の辞令の半数近くは、創設されたばかりの組織や新ポストへの異動でした。 振り返れば、そうしたことも私の役所人生の特色だったのだろうと、面白く思っています。 その幾つかの部署をあげてみますと。 今でこそシックハウス症候群(新築住宅の新建材などから出る化学物質が原因で起こる、 めまい・頭痛・精神不安などの症状)などという言葉で、国民の理解が深まっていますが、 当時は認知度が低かった家庭用品の安全性を監視・指導するという室。全国で250万軒 以上ある、理・美容店、クリーニング店、公衆浴場、旅館、飲食店などの生活衛生関係営 業を監視・指導する課。日本の高齢化社会が進行する中、成人病を予防し、脳卒中などに よる寝たきり老人を作らないことを主眼とした、老人保健対策を推進する課など、当時の 行政ニーズから創設された部署。 あるいは実質的な新規ポストとして、保健・医療関係の公益法人の許認可・指導監督担当 係長や、骨髄移植推進対策の担当補佐などもありました。昨春までお世話になった国民生 活金融公庫での専門審議役なども新規でした。 新規ポストへの異動は、業務の前例がないという不安が心をかすめる一方、新しい道を切 り開いていけるという意気込みもありました。 先日、20回にわたる人事異動の記録として、職場名・職名及び在任期間を手帳に記入し てみました。 そして、良かった(やり甲斐があった、楽しかった)と評価できた職場(ポスト)には○ を、そうでなかった職場(ポスト)には×をつけてみました。△は無し。迷うことなく○ が打てない場合は×。 結果は、3分の2ほどが○。 良い思い出の残る職場、良くなかった職場。 その差は何だったのかと、さらに考えてみました。 答えは明確です。評価の基準として、業務の目的と内容、職責(職務権限)、人間関係な どがあげられるでしょう。 ○をした職場では、「国民のためになる仕事だと思えたこと、自分の考えと行動を(少し でも)業務に反映出来ていたこと、理解ある上司がいて、職場の雰囲気が良かったこと」 といった要素の幾つかが関連し、備わっていました。 仕事のやり甲斐も職責も程々にあり、さらに職場の雰囲気も良好なら、毎晩遅くまで残業 を強いられても、さほど苦にはならないものです。 いたずらに緊張を強いられる昼間業務が続き、連夜の不毛とも思える残業を余儀なくされ ていると、どんな人間も思考能力も勤務意欲も低下し、心は乱れてきます。 そうした状態を改善できるか否かの大きな分かれ目になるのが、管理職、上司の技量。 そう考え合わせると、私が○をしたところは、前述したように業務の面白さとか裁量の多 寡などが基本にはありますが、それ以上に決まって懐の広い管理職、上司に恵まれていた ことに気づきます。 今、役人人生を振り返って(これは一般企業の場合も同様でしょうが)、組織に働く者に とって極めて重要なことは「良い上司につかえること、良い上司になること」と、痛感し ます。 厚生省に入省してから初めての辞令。 それは統計調査部という現業的な職場から、本省のある局の筆頭課への異動。 異動してしばらくは、例えば起案文書の書き方、公印の扱い方、持ち回り決裁の仕方とい った基本的作業さえも何一つわからず、不安に明け暮れた毎日でした。電話が鳴りっぱな しでも誰も受話器をとらず、仕方なく電話を取ると、所管する法律の疑義照会などで、し どろもどろ。毎日が冷や汗の連続でした。 しかし職場の誰もが殺気だって仕事をし、他人のことなど構っていられないような殺伐と した雰囲気。 また、キャリアや「先生」と呼ばれていた医師などが多い職場で、一般事務官は隅に追い やられた存在でした。 まさに権威主義と、官僚システムの象徴である位階秩序が渦巻いた職場環境。 そんな中、私の上司にあたるノンキャリアのA課長補佐は、トイレに立ったときなど折に 触れ私の席に寄り「どうかい、慣れてきたか。わからないことがあったら、何でもいいか ら儂に聞けよ」と、気軽に声を掛けてくれました。当時はワープロなどが出現する遥か以 前。罫紙への清書と電卓での計算は、いつも私が「文字がきれい、計算が早い」と指名さ れ、A補佐の机の前に椅子を置いての作業を。 そして、仕事が引けた後には決まって新宿の酒場(通称「しょん便横町」)に連れて行っ てくれました。 杯を交わしながらの口癖は「東井君、男は男らしく生きろ。夢を持ってな」。 酒が好きで仕事熱心な優秀な方でしたが、定年を待たずに早くして亡くなられました。 あの当時あの方が職場にいなかったら、私はとうに厚生省を辞めていたと思います。 単に、事務処理能力や管理能力にたけている、あるいは人柄が良いだけというレベルにと どまらない、職場の素晴らしき上司、社会の優れた指導者たち。 彼らには、共通した人間性があるようです。これまでのつたない役人人生と社会経験の中 から、私が感じ取った共通性。 それは「いばらない。謙虚である。感謝の念にあつい」ということ。 あのA課長補佐もそのような方でした。 「役所を辞めよう。たった一度の人生を、こんな非人間的な職場環境の中で無駄に送りた くはない」。 若い頃に何度かそう決意し、そしてぎりぎりのところで翻意してきました。 それは、その時その職場に誰か一人、それなりに「良き上司」がいて、何らかの励ましを 与えてくれていたからだと思っています。役所のシステムや慣習は我慢できないが、あの 上司のアドバイスを酌んで、もう少し頑張ってみようかと。(それが辞職を思いとどまっ た大きな要因でしたが、他の要因も。そのへんは次回にでも) そして、歳月を重ねる毎に仕事の魅力も増し、今度は次第に部下を持つ立場へと移行して いったのです。 巨大組織の片隅で、虫けらのような存在として深夜の役所の廊下を歩いていた「匿名の若 者」。 それはかっての私。「何のための残業だ。国会用務だ、予算待機だと大騒ぎしながら、物 事の即断即決が出来ず、だらだらと居残りを続けているだけで」そんなボヤキを吐きなが ら。「あと1時間、あと30分だ」と、コピーを取りながら自分に言い聞かせ、役所のす すけた壁時計を見やっては、帰宅時間を数えていました。 今、私の周囲には公私を問わずに若者がたくさんいます。 彼らは今の時代に、一体何を考え、何を求めているのだろうか。 その彼らの目線に、今の私はどのような「上司」「先輩」に映るのだろうか。 きっと野良犬のような飢えた目をしていたに違いない、かっての自分。 それはそれで愛おしい昔日の思い出としながらも、今の若者に当時の自分をそっと重ね合 わせて、考えてみる事があります。 そして、現代の若者にいたずらに迎合することなく、せめて我が限りある人生の来るべき 時においては、「好きなんスヨ、先輩みたいな生き方が!」と、後輩が言ってくれるよう な「人生の先輩」を演じるのもいいかな、と勝手に想像している立春の候なのです。 《 2004年2月13日 》 あっという間に過ぎた30数年の役人人生。 前回のメールで述べましたように、その間に20回の人事異動の辞令交付を受け、様々な 業務に携わり、そして様々な人々と出会ってきました。 振り返ると、手応えのある面白い業務に係わる機会も多く、恵まれた人事異動を繰り返し てきたといえます。 しかし、この巨大で封建的な国家官僚組織の中で、不条理な労働環境などに嫌気がさし、 何度となく退職を考えたことも事実です。 だから尚更に、よくぞ今日まで勤め上げることが出来たものだと、感慨深いものがありま す(今日の社会では、1カ所に長く勤めることが美徳という価値観は、急激に薄らぎまし たが) 長い役人(サラリーマン)生活を全う出来た最大の要因は、何と言ってもプライベートの 時間を楽しんでこれたこと。これに尽きます。 人事異動においては、辛い業務を抱えた職場、無味乾燥な職場に配属されることもありま す。 また、自分の意志や要求を抑え、組織の掟に従わなくてはならない時もあります。 それは組織に働く者の宿命でしょう。 そんな時には、ある人は同僚と酒を酌み交わして憂さを晴らし、ある人は我が子の健やか な寝顔をそっと覗き込んで気持を奮い立たせ、またある人は音楽や映画鑑賞などの趣味で 心を癒し。 いずれにしろ、各自がそれぞれの思惑と人生観を持ちながら、「生きていくために働くこ と」を止めないよう、けなげな知恵と努力を払っているのです。 私の場合も然りでした。 殆ど毎晩のように同僚等と有楽町や新宿の安酒場に繰り出しては、仕事のこと、上司のこ と、社会のことを酒の肴にして談論風発。 しかしそうした、どちらかというとそれぞれの限られた同僚内や、個人的な世界での気晴 らしもさることながら、一方で職場の内外の仲間と織りなしたプライベートの人間関係、 サークル的活動なくしては、私の役人人生は成り立たなかった、と思っています。 そこで、これも前回の人事異動記録のように、役人になってから今日までのサークル活動 の思い出を記してみます。 まず鮮烈に思い出すのが、採用後初めて配属された、市ヶ谷にある統計調査部(当時、霞 ヶ関の本省から庁舎が独立。400名近い職員が現業的な業務についていました)という 職場において、バレーボール部の主将として活動したこと。 昼休みの時間や閉庁時間になると、連日のようにコート(土で出来た本格的なもの)に飛 び出し、激しい練習を行って汗と泥にまみれていました。 当然、半ドン(午後が休み)の土曜日の午後や日曜日も練習。 そして庁舎が近かった自衛隊や機動隊、総理府のバレー部などとの練習試合や、各種大会 の公式試合に出場しては、歓喜と落胆の記録を綴ってきたのです。 主将に就任した頃は男女合わせて数人しかいなかった部員も、若いエネルギーが横溢した 活動が続き、間もなく四十名程の大所帯に。練習後は決まって参加者総出で、近くの飲み 屋に繰り出していました。 一方、文化活動も同時にエンジョイしていました。職場新聞や同人誌を発行するサークル を創設。 その部長として、これまた近くの喫茶店や焼鳥屋の一角を陣取っては、長時間、学生時代 の部活のように自由なデイスカッションに興じていました。 当時の配属先の業務は(私としては)面白味が無く、忍耐が強いられる地味な内容でした ので、休憩時間や退庁時間が待ち遠しく、肩から先は機械的に作業を進めているものも、 頭の中は常に部活や女の子のことばかり。年輩の女性陣(女性の多い職場でした)に助け られ、新米職員として何とか仕事の体面を保っていました。 今思い出すと、本当に気恥ずかしくなるほど勤務時間外にウエイトを置いた時期でした。 もうあのような環境の職場は、今後日本中を探しても絶対に見当たらないでしょう。 組織も時代も大きく変わりました。 青春時代の掉尾を飾る、社会人としては殆ど得難い、奇跡的な時期を過ごすことが出来ま した。 良きにつけ悪しきにつけ、新人として恵まれた役所人生のスタートを切れたのです。 その後、前回のメールで述べましたように霞ヶ関の本省への人事異動。 一転して職場環境は、暗く重く辛く長く。人間関係はタテ(上下)の関係は成立しても、 ヨコ(仲間)の関係は無し。 同じ日本人でも人種が全く異なってしまった感に、カルチャー・ショックを受けました。 そうした状況においても、冷えた心を温め、目覚めたときに出勤の意欲を蘇らせてくれた のが、職場でのサークル活動。 本省の極めて厳しい労務管理の中、昼休みの貴重な時間には、極力組合の寄り合いに顔を 出したり、有志でバレーボールの練習を(場所は、旧庁舎の間の狭いコンクリートの敷地 で)していました。 職場で息が抜けるのは、そうしたひとときだけ。 そのうちに私が、なり手のない本省の組合の青年部長に選ばれてしまいました。 そこで日頃の実感から「思想信条に凝り固まらず、せめて、縦の厳しい組織に埋没してい る若者が、気軽に集まれる機会を作ろう」といったコンセプトを打ち出し、ダンスパーテ イや夏祭り、映画上映会やソフトボール大会などの事業を展開していったのです。 すると普段は顔も見たことのない若い職員が、ぞろぞろと集まるようになり、廊下ですれ 違っても気軽に挨拶出来るような仲間意識が醸成されていったのです。 しかし、与えられる業務の責任も徐々に増し、結婚や子供の誕生などを経るにしたがい、 そうした活動とも、いつしか疎遠に。 スポーツは月に何回かのジョギングだけ、職場での人間関係は同じ課の上司や同僚と飲む だけ。 明けても暮れても多忙で砂を噛むような日々が続きました。 「たった一度の人生を、こんなことでいいのだろうか」と自問しながらも。 そんな心身の空白時期が続き、第3子が生まれる直前の昭和57年の秋。 本省内のソフトボール大会が開かれ、私も同じ局の仲間をかき集め、即席チームを結成し て出場。 試合の後、居酒屋でお互いの健闘をひとしきり称え合い、誰もが久々の爽快感に酔ってい ました。 そして今日一日の楽しかった余韻を噛みしめるように、誰かが「こんなことが、またあっ たらいいよなあ」と、しみじみと呟きました。 その瞬間、激しい情動に突き上げられ、私は間髪入れずに「このメンバーで野球部をつく ろう!」と提案していました。 すると全員が破顔一笑で賛同し、異様なくらいに盛り上がる中、早々とチーム名の検討に。 結果、チーム名は「ブルー・バッカス」に。 青空の下、すがすがしい汗を流し、その後うまい酒を酌み交わす。酒の神(バッカス)も 微笑み、ついつい飲み過ぎて翌日の気分はブルーにも。酒好きの連中にふさわしいチーム 名。 当時、十名程だった部員も、今では50名近くになりました。 毎年、春秋に開催される千代田区野球大会での優勝を目指し、河口湖での合宿や東京ドー ムを借り切っての練習、そして長野県の佐久病院(日本の地域保健医療の草分け的病院。 野球部は国体や全日本大会で優勝した経験のある名門)への遠征試合など、春夏秋冬を通 して途切れることなく活動を展開しています。 「いい汗かいて、いい酒のもう!」「一人はみんなのために、みんなは一人のために」を 合い言葉に。 この野球部を創設してから、すでに23年の歳月が流れました。 この間に、何人の部員が結婚し、人の親となっていったことでしょう。 当時は平職員だった部員の多くが、係長や課長補佐になってきました。 遅くまで飲み騒ぎ、終電がなくなった部員を我が家に連れ帰っては、吉田拓郎や井上陽水 のレコードをかけながら、再び繰り広げる真夜中の酒宴。夜中に起こされてしまい、私の 胡座の間に座って不思議そうに周囲を見渡していた幼稚園児の娘も、今年は早や社会人に。 どんなに苦しく辛いことがあったときでも、監督兼選手としてグラウンドに立ち、あるい は彼らと酒を酌み交わしながら談笑するとき、「もう一度、頑張ってみるか」という気力 が身体の底からみなぎってきたものです。 この野球部創設の5年後の昭和62年。 これも縁あって、当時私が担当していた保健医療関係法人の有志の方を中心に、「とわ会」 という親睦会がスタートしました。 最初の懇親会に参加したのが10(とう)団体、東井(とおい)の輪、そしてこの友情的 関係が永遠(とわ)に続きますように、との意味合いから「とわ」と命名されました。 この会では毎年、花見や納涼会、望年会などを(最近では倫理規定に抵触しないように) 継続して開催しています。集まりでは、名刺を振りかざさず、従って酒席においても上下 の関係を作らないこと、みな割り勘で処理し、幹事などは順番に行うこと、などの暗黙の 了解があります。 多いときは30名ほどの参加。様々な職種や団体の方。多士済々です。 宴のたけなわで、恒例の童謡や学校唱歌の合唱。「みかんの花咲く丘」などを肩を組み、 輪になって歌います。 18年前の紳士・淑女は、今でも皆元気。 しかし、これまでにお亡くなりになった方も2名おり、時の経過をしみじみと実感させら れます。 いい仲間がいる。楽しい交流のひとときがある。だから仕事に弾みがつく。いい仕事が出 来る。職場での嫌なことも忘れられる。そして、家庭生活を含めた毎日の生活に、潤いと 味わいが生まれる。 公の時間と私の時間の充実は、それぞれの相乗効果によって生まれるもの。そう確信しま す。 職場の内外の方々との、心通うつきあいがあったお陰で、我が役人人生は鮮やかに彩られ、 悔いのない思い出深い日々を送ることが出来た、とつくづく思えるこの頃なのです。 時は2004年。歳は56。 「現代の50代は、音楽に例えて言えば新しい楽章に入る時期。これからが大切ですから、 自分が何をしたいか、何をするべきか、しっかり考えて見つける。見つけたら「この年で こんなことは出来ないわ」なんて、思わないことです。行動に移すことだと思います」 (女優・吉永小百合さん) 萌え立つような春の季節が、そこまで来ています。 《 2004年2月20日 》 先日の朝、久し振りで早稲田界隈に出向いてきました。 地下鉄の駅の階段を上がりきると、朝の光が差し込む出入り口に、早稲田大学の腕章を巻 いた学校職員が、スピーカーを片手に受験生を誘導していました。 その日は、早稲田大学の某学部の入学試験日。 時間的に、受験生の姿はあらかた消えていましたが、何人かの若者が慌ただしく駆け去っ ていきます。 関係のない私まで、朝の冷気が張りつめた中、厳粛な緊張感に襲われます。 これから高校や大学に進学しようとする者、学校を卒業して新社会人になっていく者。 この季節は、そうした若者の不安と期待、歓喜と挫折の息づかいが、街に漂うようです。 そしてこの春はまた、別れと出会いの季節。 学園生活で育まれた友情も、その後のお互いの境遇の相違から儚く消え去り、歳月は競争 社会の荒波に負けまいと必死に舵をとる若者を、容赦なく変貌させていきます。 今日の友が明日のライバルとなり、進路を異にした航跡は二度と相見(あいまみ)えるこ ともなく。 競争に遅れまいと必死で駆けていく若者の後ろ姿に、甘酸っぱい思いがこみ上げます。 その3日後、またまた早稲田界隈に行く機会が。 その夜は、日本のウオーキング(歩け歩け)運動の草分けであるK氏と、お茶の水界隈の小 料理屋に。 大好きな菊正宗の樽酒を、燗にしてゆるりと酌み交わしました。 K氏は私より幾つか年上で、母校・早稲田大学の先輩。 お互いにお銚子を5本ずつ飲み干した後、先輩がある店名を。私が「そんな店は知らない」 というと、「早稲田の学生で、あの店名を知らない者はもぐりだ」「私は勤労学生。貴方 みたく夜な夜な遊んでいなかったからね」「あの頃はみんな同じだよ。それでは是非、紹 介したい」ということになり、タクシーを飛ばして出陣。 その店は都電荒川線の早稲田車庫の裏道にありました。大きな看板の明かりが煌々と灯る おでん屋。 比較的に大きな店内は、若者や近所の年輩の方でごった返していました。 運良くカウンターの2席が空き、そこでまた、燗酒を。 隣席は、一人手酌で飲んでいる品の良いご高齢の方。長身で彫りの深い横顔。 私が手刀を切りながら「失礼します」と座ると、「ご立派。そういう礼儀はなかなか出来 るもんではない」と喜んで、お酌をしてくれます。 これも小粋な出会い。 歳を聞くと81才。やはり母校の先輩で、会社経営を引退してから十数年、週に3,4回 店に通っているそう。 おでんの大鍋の前に立つ艶のあるおばあちゃんは、店のご主人で83才とのこと。 かくしゃくとして若い従業員に指図しています。 K氏の顔を見るなり、驚いた顔でカウンターを出て、彼の手を握りしめます。 そんなこんなで、その店でさらにお銚子を4本ずつ飲んで盛り上がってしまいました。 K氏と夜道に出ると、おばあちゃんが追ってきて、再び握手。 手をなかなか離さずに、いつまでもK氏の目を愛おしく見つめています。 私には、まるで親子が長(なが)の別れを惜しんでいるように見えました。 2月とは思えない、やわらいだ夜風が吹き抜ける露地。 空に清涼な星が瞬く、酒の酔いも爽快な夜。 私は氏と別れ、「集まり散じて人は変われど、仰ぐは同じき理想の光、、、か」と一人呟 きながら、駅に向かいました。 仰ぐは同じ理想の光。 高校時代の恩師が、私の卒業の寄せ書きにしたためてくれた言葉。 「理想は高く、心は低く」。 理想とは何だろうか。 高校を卒業して昼は厚生省で働き、夜は早稲田大学に学び、先週までのメールに書いたよ うに、役人として20回の辞令交付を受け、様々な業務と人に触れてきた37年間。 最近、こう考えたことがあります。 我が生い立ちにおける家庭的環境と経済的状況が異なっていたならば、果たして社会人と して、今と同じ運命を辿っていただろうかと。 役所のいわゆるキャリアとか一部上場企業のサラリーマンを登りつめて、自らの差配を振 るうことを理想としていただろうか。 あるいは、一芸に秀(ひい)でることを理想として、日々何かに没頭していたのだろうか と。 答えは簡単でした。 「私にとってはこの生き方しか無かった。これが一番、これが運命」と。 いつも内弁慶で神経質で我が儘だった子供が、気がつくといつの間にか、駆け去っていく 若者の背中を、親のような目で追いかけられる大人に成長できたこと。様々な苦悩や喜び の風に吹かれながら、過去を振り返らず、明日のことを思い煩うこともなく、元気に我が 旅を続けてこられたこと。 だから、これに勝る理想はなかったのだろうと、しみじみと思うのです。 そして、人生80年時代の今、もう一度新たな理想を抱き、今までに培われたはずのささ やかな勇気を信じ、あと10年、あと20年を勇往邁進していきたいもの、と念じている のです。 最近読んで感じた本「不毛地帯」(山崎豊子・著)。 その中で、敗戦のきわに自死した海軍中将の、その長男の話がいつまでも残照として心か ら消え去りません。 父親と同じ軍人の彼は、南洋で凄絶な死闘を展開し、多くの部下を失い、深い絶望のまま に復員してきました。そして異国の地に無念のうちに消えていった若き御霊を弔うため、 比叡山にこもり、厳しい修行に一生を捧げるのです。 その彼が、訪れてきた妹にこう語ります。 「仏者としてつくづく思うことは、仏教の根本は、一言でわかりやすく言えば「共生(と もいき)の精神」だと思う。 自分のためだけの生き方ではなく、自分の生き方が人に感銘を与え、人に幸せをもたらせ る、自他共に生きる共生の心が存在しなければならない。難しい何万巻の経典も、要約す れば、その根本はここに至ると思う」。 私は仏教のことなど何も知りませんが、この達観した平易な言葉が、とても鮮烈に心に残 りました。 そしてこれからの後半生における新たな理想について、なにがしかの暗示を与えてくれた ような気がしているのです。 別れと出会いの季節がやってきました。 私もこの春、厚生労働省を卒業する決心です。 56歳で早期退職します。 21回目の辞令。 一つの終わりとともに、それは一つの新たな始まり。 人生劇場の第2幕の序幕が、近づいています。 それでは良い週末を。 |