東井朝仁 随想録
「良い週末を」

アナウンサー(1)
私の毎朝の習慣の一つは、朝日新聞の朝刊を通読すること。
夕刊は読まないが、その代わりに1週間に2~3日(回)ほど夕刊紙「日刊ゲンダイ」を
購読している。
先日、その夕刊紙を表ページから順に流し読みしていくと、ちょっと驚いた頁に遭遇した。
中ほどの頁に著名人による連載欄があるのだが、そこにセーターを羽織ったタレント・俳
優の石田純一氏が微笑んでいたのだ。
目を通すと、「70歳のダンディズム」との題名で、自己のこれまでのエピソードを述べ
ており、連載10回目になるこの日は「小学校時代は、暴れん坊に交じって悪ガキだった」
という見出しで、小学校高学年時代の話をしていた。

こういうくだりがあった。
『住んでいたのは目黒区の元競馬場というところ。競馬場は府中に移り、僕が住んでいた
頃には競馬場の面影も無かったが、たくさんの野原があり、多くの自然が残っていた。目
黒というのは面白いところで、山の手と下町が混在している。洒落た住宅地もあるが、坂
を下ると下町風の商店街が賑わっていた。公立の目黒の小学校にはさまざまな子供がいた。
品のいいお坊ちゃんもいたし、貧しい暴れん坊もいた。僕の家は、金持ちではなかったが、
どちらかというと、前者に属した。しかし、それでは面白くないのである。迷わず、暴れ
ん坊グループに入って、イキがった。母親は何度も学校に呼ばれたらしい。でも、厳格な
父親には内緒にしてくれた。随分、苦労をかけてしまった』

公立の目黒の小学校とは、我が母校「目黒区立不動小学校」のこと。
当時、石田君が住んでいたのは、私が住んでいた家と同じ町内会である下目黒5丁目。
私の家の近くを、通称「フランク永井通り」が通っていた。
この住宅街の中を通る左程広くない道路は、目黒通りの元競馬場交差点を起点に直線で1
キロほど先のT字路の正面に建つ、歌手・フランク永井の豪邸前を通り、そこから緩やか
な坂道を下って目黒不動尊まで続いていた。
フランク永井が家を建ててから、いつの間にか「フランク永井通り」と呼ばれるようにな
り、私もタクシーで目黒駅から帰宅する時は『フランク永井通りを200メートルほど入
って』と告げていた。
この通り沿いの地域には立派な屋敷が多く、二谷英明・白川由美夫妻などの著名人や大会
社の重役等の邸宅が並んでいた。
フランク永井の邸宅前のT字路を左に降りていくと、NHKの3階建ての立派な職員宿舎
が建っている(昭和30年代では、まだ今風のマンションのような建物は少なかった)
石田君の父親はNHKのアナウンサーだったので、一家がそこに住んでおり、彼はそこで
生まれ、幼少期を過ごしたのだ。
宿舎の裏手には大きな樹木が繁る「林試の森」(注・林業試験場)が広がっており、宿舎
の前のなだらかな坂をさらに下っていくと、目黒不動尊の本堂や、森や池に囲まれた広い
境内に至った。
境内を抜けると、そこから門前商店街が広がって賑わいを見せ、その先は品川区になった。

ちなみに、当時、私の家の南側は木造平屋(後に二階を建て増しする家もあった)の小さ
な庭付きの規格住宅が、細い私道を挟んで8軒ほど並んでいたが、その中に、NHKの解
説委員・坂田二郎氏の家もあった。
氏は1954年(注・前述の石田純一氏の誕生年)にNHKの解説委員となり、同年から
1982年までの28年間、NHKラジオの「ニュース解説」の番組を担当していた。
当時はどこの家もテレビなどはなく、もっぱらラジオ・オンリー。
私の家も夕食後はラジオをかけっぱなしで流していた。
そして確か午後9時頃からだったと思うが、夕食後に新聞を読みながら煙草を吸っていた
父が「トモヒト、NHKをかけて」と寝巻に着替えた私に指示していた。
私がチャンネルをNHKに替えると、ラジオから「皆さんこんばんは。(注・坂田二郎で
す。と続けたかどうか?)」との声が流れ、その日の内外のニュースから選んだ事項につ
いて、話し言葉で解説が始まるのだった。解説時間は10分間。その短い時間で簡潔明瞭
に時事解説をするのだ。
時には私も卓袱台の前に座って聞き始めると、父が「坂田解説委員だ。庭の向こうの家に
住んでいる坂田さんだ」と私に言うのだが、何も知らない私は「ふ~ん」と言うしかなか
ったが。
その頃(1959年・昭和34年頃)の私は小学校6年生で、国内外の時事問題をラジオ
(後にテレビ)でまともに聴いたのは、この番組が生まれて初めてだった。
今思うと、例えば「ロシアのウクライナ侵攻」について、その要因と背景が10分間で覚
えられるのだから、すごいことだった。
坂田さんの相当な事前準備と平易な解説があってこそだと、感心する。

話を戻して。
石田君は、私の弟(4男・修)の小学校・中学校時代の友達で、私の家に何度も遊びに来
ていた。
(注・前述の夕刊紙を読んだ後、弟に電話して聞いてみると、弟もその『暴れん坊グルー
プの一人』だったと知り、笑ってしまった)
私が奈良の天理高校に進学後、17歳の夏休みに帰省している時に、私の家で彼と弟が昼
食を食べていた。母が「トモヒトも一緒に食べたら」と言ったが、おかずを覗き込んで
「・・・」と黙って出かけようとしたら、弟が「トモチャン、友だちの石田君」と紹介し
た。石田君は「石田です」とニコニコしてお辞儀をした。顔を眺めるとぽっちゃりした、
まさにお坊ちゃんという可愛い顔つきだった。

その後、彼に再び会ったのは、もう25年ほど前になるだろうか。
私が50代前半、彼は45前後ぐらいだっただろうか。
場所は私が会員になっていた茨城のゴルフ場。
私らは早くにホールアウトし、2階にある風呂の脱衣場で服を脱いでいると、下(1階)
から女性たちのすごい嬌声というか歓声が響いてきた。何事かと脱衣場のおばさんに聞く
と「タレントの石田純一さんが来ているのよ」とのことで、「そうか。それにしてもあの
声はすごいな」と苦笑して、ゆっくりと風呂に浸かった。
そして、風呂場から出て汗を拭いていると、タオルで前を隠しながら風呂場に向かう彼と
目が合った。
大人になってからの石田君の顔はテレビで承知していたが、私は反射的にこう声をかけて
いた。
「石田君?」
「そうですが」
「私は目黒の元競馬場にいた東井だけど、覚えてないかな」
「ああ、東井君のお兄さんですか?!」
「そう。修の兄貴です。よく覚えていたね」
「すごく広い家でしたよね。東井君は元気ですか」
「元気で設計会社を経営しているよ」
「そうですか。よろしく言っておいてください」
そう言って軽く会釈して風呂場に入って行った。
人懐っこい笑顔は、昔のままだった。
彼は目黒4中を卒業して、都立青山高校に進学していた。
私の長男と次男も、不動小で学んだあと世田谷に引っ越して駒沢中学に入学したが、卒業
後に青山高校に進学していたので、何となく目黒の同郷人として彼に親しみが沸く。
そんな彼も、私より6歳(6学年)下の1954年1月生まれだから、今年で70歳の古
希になったのだ。
そこで、夕刊紙の「70歳のダンディズム」という題名が腑に落ちた。

彼の父親がNHKのアナウンサーだったことは知っていたが、前述の通り弟に電話した際、
「ところで石田君の父親はNHKのアナウンサーだったとのことだが、どんな番組に出て
いた?」と尋ねたら「アポロ11号の月面着陸の実況放送をしていたよ」と聞いて驚いた。
月とNASA・宇宙センターの間で交わされた「こちらヒューストン、こちらヒュースト
ン」などの同時通訳で実況中継していたのだ。あのアナウンサーは石田君の父親だったの
かと、いま初めて知った。
ネットで調べると、父・石田武氏は、終戦後GHQの在日米軍基地で働いていたが、英語
が生かせると考え、高い競争倍率のNHK報道員に応募し、採用されたとのこと。
そして、プロ野球・大相撲・サッカーなどの実況や、1964年東京オリンピック時の
「オリンピックアワー」のキャスター(司会)や、ケネディ大統領暗殺事件関連の報道特
集番組の司会などで活躍していたが、在職中に脳卒中で倒れて退職。闘病生活に入ったが
63歳で病没された。
「家庭では厳しい一面があり、子供たちが口答えをしたりすると、語気を荒げて手をあげ
ることもあった」とのこと。

アナウンサーという職業は、常に神経を酷使する仕事で、大変にストレスがたまる仕事だ
と、今回改めて痛感させられた。
長くなるので、この続きは次回にでも。

それでは良い週末を。