アナウンサー(2)
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私の幼少期の頃は、家にテレビが無く、ラジオ・オンリーの生活だった。 今でも懐かしく思い出すのは、NHKラジオの「三つの歌」という公開放送の番組(注 1951年から放送)。 番組は「♩ 三つの歌です、君も僕も、あなたも私も朗らかに・・・」というテーマ音楽か ら始まるが、今でも覚えている親しみのある主題歌だった。 当時のラジオ番組は、皆が口ずさみたくなる正調なテーマ音楽と、誰でもが聞き取りやす い、正確な口調のアナウンサーの番組が多かった。 この番組は宮田輝アナウンサーの司会と、素人の出場者とのユーモラスなやり取りが、国 民の素朴な笑いを生み出していた。 現在の毒のある冷やかし的な突込みによる笑いは、私は嫌いだ。 番組は、ピアノ演奏で歌のメロデイーが流れたら、その歌を一生懸命に思い出し歌の一番 を最後まで歌えるかどうかが、聴きどころ。 歌の途中で、宮田アナが助け舟を出すのだが、真面目にとんちんかんな出場者の対応が、 面白かった。 また、賞金が貰える歌番組でもあった。冒頭に宮田アナが「1曲歌えたら300円、2曲 だったら500円、3曲歌えたら2000円をその場で貰えます」と前置きして番組が始 まる。 番組が始まったのが昭和26年。私が聴きだしたのは昭和30年ぐらいからだっただろう か。 当時は「いいな」ぐらいに思っていたが、今なら「冒頭から賞金のカネの話か。ちょっと えげつないな」と驚くかと思いきや、先日、NHKのアーカイブスで当時の番組の動画を 観ているうちに、自然に「敗戦後の貧困にあえいでいる一般庶民に、少しでも夢を与えて いた良い企画だった」と思えてきた。 (注・私が小学4年生だった昭和32年当時の物価は、例えばアンパン1個10円、キャ ラメル1箱20円、かけそば1杯30円、映画館入場料150円だった。ちなみに大学初 任給が1万円だった。3曲合格の賞金が2000円としたら、初任給の20パーセント分 にあたる。 昨年度の我が国の大学卒の初任給(一律)は約22万円。現在なら44000円の価値に なるが、当時の2000円の方が使い勝手が今より良かっただろう) 番組でピアノから流れるメロデイーは、殆ど誰もが知っているような歌ばかりなのだが、 出場者は放送中でもあり観客の面前で上がってしまい、トンチンカンな歌詞が出てしまう。 例えば。 「むすんでひらいて」(注・1947年製作の童謡)の歌がかかると。 宮田アナ:「むすんでひらいて」と、ひとこと歌の名前をささやく。 出場者の中年男性:「♩ 手を開いて・・」 (会場に笑い) 宮田:「あぁ、むすんでです」 男性:「♩ 手をむすんで開いて・・」 (笑い) 宮田:「それからパチッとやりますね(注・手を打って)」 男性:「♩ 手をむすんで開いて手を握って」 (爆笑) 宮田:「握るのはお寿司屋さんにまかせて」 (爆笑) といった具合。 戦後の貧しい時代を反映し、観客の誰もがワイシャツか白のブラウス姿で、白黒の画面一 杯に屈託のない笑顔が溢れていた。 ラジオは、音声だけですべてを表現しなくてはならない。アナウンス(告げること)と人 との会話が命。 宮田アナウンサーの親しみのある見事な司会ぶりは、まさにラジオを聴いている国民も、 その場に完全に引き込んでいたと感心する。 宮田アナは、敗戦からわずか5か月後にスタートした「NHKのど自慢素人演芸会」の司 会も長く務めた。まさに国民的な司会の名手だった。 中学生の頃までのラジオ・アナウンサーで思い出すのは、それ以外にNHKとフリー時代 の両方で活躍した高橋圭三氏。それに、TBSラジオのディスク・ジョッキーで、低音の 渋い声で人気を博した竹脇昌作氏。 私の子供の頃は、毎年ずっと、NHKラジオで大晦日の紅白歌合戦を聴いていたが、高橋 アナの白組司会者としての軽妙な話しぶり、それでいてNHKアナとしての品格を損なわ ない滑舌が、とても印象的だった。 まさに「ザ・アナウンサー」 NHKを辞めてフリーになってからも「どうも、どうも、司会の高橋圭三です」の挨拶に 伺えるように、常に視聴者の目線より高くならず、民放の各テレビ番組に溶け込んで活躍 したことも、忘れられない。 竹脇昌作アナは、TBSラジオの夕方の番組でデイスク・ジョッキーを務め、その感情を 抑えたクールな低音の口調は「竹脇節」として人気を博した。 そもそも竹脇アナは1934年にNHKにアナウンサーとして入社したが、すぐにフリー となり、パラマウントのニュース映画などのナレーター(注・映画・テレビ・ラジオなど で、顔を見せずに解説をする人)としても活躍した。 昔は映画を観に行くと、劇映画の他に、必ず10分ほどのニュース映画も上映されていた。 私の記憶では、毎日などの新聞各社や映画会社製作のニュース映画の殆どが、竹脇アナの ナレーターだった気がする。 私の周りの大人たちには「竹脇昌作の声は魅力的」と評判だった。 まさにラジオ時代が生んだ秀逸な声調を有したアナウンサーだったと、私は思う。 だが、仕事では完璧主義者で責任感が強かった竹脇アナは、多忙な毎日と生放送という重 圧などから徐々に神経が侵され、「重度のうつ病」に陥った。 そしてそれを克服したかに見えたが、1959年11月、自死した。 息子の、俳優・竹脇無我氏は「気の小さい人でしたね・・・。豪放磊落にしているのは、 今思えば、それを隠すためだったのかも知れません」と父の事を語っていた。 やはり前述したNHKの石田武アナウンサー(63歳没)も含め、戦後の日本の混乱期か ら高度成長期に至る日本のマスコミ界に、「秒針に追い回されて」奮闘した末に、無念の 戦死を余儀なくされたアナウンサーがいたことは、忘れられない。 その後、時代はラジオからテレビの時代に移行し、テレビ用向けのアナウンサーが誕生し てきた。 次回は、そのうちの想い出の数名のテレ・アナについて述べてみます。 それでは良い週末を。 |