東井朝仁 随想録
「良い週末を」

アナウンサー(4)
日本におけるテレビの世帯普及率は、内閣府の調査で「1964年東京オリンピック」が
開催された昭和39年時点で、白黒TVで約90%に達していた。
(注・だが、カラーTVの放送が、オリンピックの約4年前の1960年9月10日に開
始されていたが、カラーTVの普及率は殆どゼロだった)
そして、東京オリンピックの開会式をテレビで観たと答えた人は、NHKの調査で95%
に上った。
(注・カラーTVの普及率は、このオリンピックを契機に上昇し始め、1970年の大阪
万博開催年には26.3%になっていた)
私は、日本の戦後復興期から高度経済成長期への飛翔台となった、この東京オリンピック
開催を、東京から遠く離れた奈良県天理市で迎えた。高校2年の秋だった。
寄宿舎には当然のことにテレビなどは無い。
そこで、せめて10月10日(土)の開会式ぐらいはテレビを観ようということで、当日、
級友数人で街中の「甘味や」に行った。
そこは古い簡素な造りの小さな店だったが、何とカラーテレビを設置していたのだ。
そこで我々は「2個50円の小豆あんこ巻」をそれぞれ一皿注文し、あんこ巻を食べなが
ら固唾をのんで、生まれて初めて見るカラーテレビの開会式に目を凝らした。
私にとって白黒・カラーを問わず、1時間以上の番組をテレビで観るのは3年ぶりだった。

結局、1964年東京オリンピックをNHKテレビで観たのは、この開会式と、「鬼の大
松監督」率いる「東洋の魔女」と謳われた日本女子チームと、ソ連チームとの決勝戦だけ
だった(この試合の視聴率は85%)
でも、このたった2回のテレビ観戦で、私は十分だった。
その時の印象は、歳を重ねるたびに、時々テレビや映画や新聞・雑誌や、今ならパソコン
やスマホで増殖され、色褪せることなく鮮やかな記憶として、今でも残っている。

特に開会式。
当日の国立競技場の上は、前日の強雨から一転、見事なほど晴れ渡った青空が広がってい
たそうだ。
開会式のテレビ実況中継のアナウンサーは北出清五郎氏。
1953年から始まったNHKの大相撲実況中継のアナウンサーとして、正確な描写と徹
底した取材に基づいた実況で「相撲の北出」と呼ばれていたそうだ。
オリンピックにおけるNHKのエース北出アナは、開会式の冒頭でこう述べていた。
「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」
とても印象にのこる、見事な比喩だった。
北出アナは1972年札幌オリンピックのスキージャンプの実況アナとしても、
「さあ笠谷、金メダルへのジャンプ、、飛んだ!決まった!」と簡潔な言葉でアナウンス
していた。

一方、東京オリンピック開会式でのNHKラジオの実況アナウンサーは鈴木文彌氏。北出
アナの2歳下。
私は当日は聴いていなかったが、鈴木アナは、東京の秋晴れの空を「開会式の最大の演出
家、それは人間でもなく、音楽でもなく、それは太陽です」と表現し、式典の最初のオリ
ンピック序曲の演奏が始まると、こう述べていたそうだ。
「東から西から、南から北から、海を越えて、空を飛んで、世界の若人が、世界のスポー
ツマンが、東京に集まってきました」
スピード感に溢れる、たたみかけるような表現で定評があったアナだった。
また、前述の女子バレー決勝のテレビ実況を担当し、日本リードで迎えたマッチポイント
の場面で「いよいよ金メダルポイントであります」と実況していた。

北出アナも鈴木アナも、長年にわたりスポーツ中継の実況担当として活躍されていたので、
若い頃の私にとっては、ラジオでよく聴いていた野球中継の志村アナウンサー(注・特に
「何と申しましょうか」の小西得郎解説者との実況が有名)共々、すぐに思い浮かぶ名ア
ナウンサーだった。
名アナウンサーや名ニュースキャスターがいてこそ、テレビやラジオというメデイアの魅
力が発揮され、大衆の耳目(じもく)を引き付けることが出来るのだ、と言っても過言で
はないだろう。

最後に、私が直接取材を受けた二人のアナウンサーについて。
一人は、近藤サト・元フジテレビアナウンサー(現フリーアナ)
私が45歳の頃、当時フジテレビの「スーパータイム」という報道番組の週末メインキャ
スターだった近藤サト・アナから単独インタビューを受けた。
用件は、フジテレビの「追跡報道」という1時間(45分?)番組で「岐路に立つ骨髄移
植」と題する特集を予定しており、行政としての骨髄移植推進事業の現状認識と今後の対
応策を聴取したいとのこと。
私は突然の来訪に慌てながら、職場では狭いので省内の会議室をとり、たった一つ空いて
いた小会議室に異動して、取材を受けた。
当時、近藤アナは入社2年ほどの新人アナだったと思う。
先方は近藤アナと、先輩女子アナそれにカメラマンの3人。
近藤アナは少し緊張気味で、白い表情がやや青ざめて見えた。先輩アナは、それまでフジ
テレビの番組でよく見かけた人で、内心「この人にインタビューを受けたかった」とも思
ったが、狭い部屋で狭いテーブルの前に対峙して座り、話すたびに近藤アナの言葉に熱が
こもり始め、接近するように顔がこちらに向かってくるうち、「真面目で綺麗な人だな」
と、会話の流れに意識を向けながらも、本能的にそんなことも感じていた。
骨髄移植に関してはそれまでも何回かNHKを始め各局から取材を受けていたが、どの時
も取材・撮影は20分ほどだった。
しかし、この時は1時間以上にわたり、私も随分色々と喋った。
だが、取材時間と放映される時間は比例しないことは当然。
案の定、放映日にテレビを観たら、私の喋っている場面はたかだか2分程度だった。
その後、近藤アナをテレビで拝見したのは、歌舞伎俳優の坂東三津五郎と結婚したニュー
スで。そしてフジテレビを退社してフリーに転身後、白髪の頭をした近藤アナが何かの番
組に出ていて驚いた。髪染めは全てやめ、これからは自然に地のままの姿でいく信念との
こと。現在55歳だから、50歳前には髪に白いものが混じってきたのだろうか。
いずれにしろ潔(いさぎよ)い人だと、あの端正な真っ白い表情を思い出して、感心した。

もう一人は有働由美子・元NHKアナウンサー。
私が50歳の頃、土曜日に家の近くのゴルフ練習場で球をバンバン打っている時に、打席
の背後の通路から声を掛けられた。
振り返ると、カメラマンと収録機を持った人と、有働アナが立っていた。
有働アナは例の人懐っこい笑顔で「練習中失礼ですがお邪魔します。NHKのサンデース
ポーツという番組を担当している有働と申しますが、少しだけお話を聞かしていただいて
よろしいですか」と。
私はドライバーをブンブン振り回して練習していたので、汗びっしょり。
それを拭いながら「どうぞ」と答えると、ゴルフの練習は週にどのくらいやっていますか、
上達してきましたか、ゴルフの魅力は等と聞いてくる。
途中「私は幾つに見えますか?」「さあ、まだお若いでしょう?」
「もう50ですよ」とやり取りすると、有働アナは咄嗟に「あっ、それいい!それで行き
ましょう。カメラさんもう一度」と、撮影を終えたカメラマンに声をかけ、再びカメラの
採光が当てられてマイクが向けられた。
すると、私は「?」と思いながら、「私は幾つに・・・」の質問を返すことなどとは思い
立たず、再び「ドライバーは飛びますか?」「飛びますよ。グーンと。でも途中で曲がっ
てしまいます」とか喋っていた後だったので、「曲がってもボールを飛ばす快感は・・」
などと喋ってしまっていた。
サンデースポーツでの放映は翌日の夜。
観ると、スポーツニュースの間に設けられたその週の特集で、この日は、サラリーマンを
中心としたサンデー・ゴルファーの特集だった。ゴルファーの金井プロをゲストに、当時
NHKの野球解説者だった原辰徳氏と有働アナがキャスター。日曜日の週1回にゴルフの
練習やコースに出るだけのサンデーゴルファーに対する応援とアドバイスが狙いだった。
その冒頭に、練習場の風景や私を含めて3人のインタビューが映し出されていた。
この短い有働アナとの会話のシーンを、なぜか今でも鮮明に思い出す。
有働さんの軽やかなアドリブに即応できなかった情けなさと共に。

現在、私が好きな最近のアナウンサーは、元NHKの武田真一アナウンサー。
昨年NHKを退局し、現在は日本テレビの情報番組「DayDay」のメインキャスターとして
活躍中。
武田アナは今「日々勉強し、現場に飛んで声を聞く。そして伝える、繋がることを命題と
している」とのこと(注・週間AERAより)
時代は変われど、どなたも名アナウンサーと言われた人は「自分の信念」を持って突き進
んでいるように思える。
だから、情報が氾濫し混乱している今こそ、権力や忖度や風潮に押し流されない、芯のあ
るアナウンサーを絶対欠かしてはいけない。
その責務は、いつに国民の側にあると強く思っているのです。

それでは良い週末を。