災害発生確率は?(1)
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今週の6月3日(月)、私は夕方のTVニュースを観て、この日が「長崎県の雲仙・普賢 岳の大火砕流」が発生した日から33年目に当たっていたことを知り、ある種の感慨に襲 われた。 「あれから、もうそんなに経ったのか・・」と。 この43名もの犠牲者が出た災害は、1991年(平成3年)6月3日の夕方、長崎県・ 島原半島に位置する活火山、雲仙・普賢岳が噴火し、大量の火砕流が島原地域を襲って発 生したもの。 私は、この災害発生の1週間ほど前に、厚生省水道整備課の総務係長として長崎県に主張し ていた。そして県庁の課長等と「水の都・島原」の街を散策していた。 古い木造の家と生け垣が立ち並び、清涼な湧水が流れる疎水路で区画されている、静かで 美しい街だった。 この島原市には50か所を超える湧水地があり、その湧水路が市内のあちこちに広がり、 きれいな水路には錦鯉が泳いでいた。まさに「水の都」であることを実感した。 島原の水は日本の名水百選でも常にトップクラスに入るだけあり、飲み水場で水を飲んで みると、市販のボトル入りのミネラルウオーターなどとは、別物の美味さだった。 私は、粛然とした古風な佇まいの地域を歩きながら、いっぺんにこの街が好きになった。 それも、県庁の方が素早く予定を変更してくれたお陰で、邂逅できたのだ。 というのは、本来は「雲仙・普賢岳」の噴火口見学が予定だった。 それが、車で山道の入り口に差し掛かった時「通行禁止」の札が立っており、ゲートの監 視員が運転手に「雲仙・普賢岳は、活動が活発化していて危険です」と、入山禁止のわけ を伝えてくれた。 すると県庁の課長は即座に「昨日まで大丈夫だったのに、仕方がないですね」と言い、す ぐさま、湧水の町に向かうよう運転手に指示した。 もし、それほどの噴火活動ではない状態で入山出来たとしても、いつ爆発するかはわから ない。ある日ある時に突然大噴火するのが活火山の本態。今日(こんにち)の噴火予知シ ステムだったら、あの日の大噴火の発生確率は極めて高く算出されていたのではなかろう か、と今にして痛感する。 そう考えると、あの「禁止」の判断は妥当どころか、むしろ遅かったのかも知れない。 そう言えば、今週の6月3日(月)早朝に、私の枕元の携帯が鳴り響き「緊急地震速報」 の音声が流れた。私はすぐに起床して服を着替えた。だが、揺れは来ない。そこでTVを つけると、石川県能登地方を震源とする震度5強の地震が発生したことが判明した。東京 では全く揺れは感じられず、TVでも東京の震度表示はなかった。東北から近畿地方まで の広範囲に速報(警報)が発せられたのだが、実際に速報の基準となる「最大震度5弱以 上」となった地域は、結果的に石川県の能登地方だけだった。 この警報について、気象庁は「まだ精度が十分ではないケースがある」と、記者会見で弁 明していたが、これはやむを得ないだろう。 地震の予知研究の著しい向上は、向こう30年間は期待できない。 2020年1月に国の調査委員会が「今後30年以内にM7クラスの首都圏直下型地震が 発生する確率は、70%程度」と報告。確か2011年3月の東日本大震災の直後、同様 の報告をしていた。 私は当時から10年程経過したので、現在なら「今後20年以内の発生確率は・・70% 程度」と報告されるのかと思っていたが、また目減りした10年分が水増し(?)された 感じだ。いつまで「30年以内、70%程度」が有効なのか・・。それは誰にもわからな い。 要は、結果論で速報の評価をするだけではなく、まず第一には予報を受けた国民、住民一 人一人の判断力・対応力が重要なのは、言うまでもない。 こればかりは嫌な言葉だが「自己責任」 「国は何をしているんだ!正確な予報をしろ!」と怒っても無駄。 それが現状であり、この現状は当分続くだろう。 まさに個々人の冷静な判断と「悲観的に準備し、楽観的に対処する」ことに尽きるのだ。 話を戻して。 私は、33年前の雲仙・普賢岳の大火砕流災害とのニアミスの経験を思い出したが、同様 に今から31年前になる1993年(平成5年)に発生した「北海道南西沖地震」も、頭 に浮かんだ。 このマグニチュード7.8を記録した地震の震源地は、北海道の南西側の日本海に浮かぶ 奥尻島から、北へ(地図では上へ)200㎞離れた沖合いだった。全道で死者・行方不明 者229名、多数の住家損壊など、甚大な被害が出たが、その殆どは、震度6、津波遡上 高29メートルという大津波が襲来した奥尻島での被災だった。 私は29歳の時に、保健情報課(今の感染症対策課)の職員として、当時、国庫補助金で 整備が完了した、奥尻町の国保病院併設の伝染病隔離病舎を視察しに、奥尻島に出張した。 院長の案内で小規模病院を見て回り、夜は奥尻町長と病院長らと共に、島に1店しかない という寿司屋の二階の和室で懇親会を行い、出前の女性二人が同席し、座を盛り上げてい た。 一次会で痛飲した後、二次会へと一同(女性を含む)が車で向かったのは、島に1店しか ないというカラオケ・スナックのような店だった。そこは出前の女性の常勤の店だった。 人が少ない島なのに、店内は広くて多くの客席ソファが置かれていた。 私は疑問に思ったが、わけを聞いて納得した。 客の殆どは、島の小高い所にある航空自衛隊の分屯基地の隊員たちとのことだった。 泊りは、島内に数軒しかない民宿の中の一番良い宿とのことで、かって、天皇陛下が巡幸 された際にお泊りになられたとのこと。宿に入ると、改築されて立派になった、その天皇 お泊りの部屋を見学させて貰った。 「神武」と部屋名が書かれた木札が出入り口に飾ってあり、中の広い和室の奥には、神々 しい御簾(みす)が垂れており、内が寝床とのことだった。 「良かったら、この部屋をお使いください」と言われたが、丁重に断り、その隣の部屋に 泊まった。他に宿泊客は誰もいなかった。 夜の3時ごろトイレに入ると、小窓の向こうの暗闇に灯りが点々と灯っていた。 イカの漁火だったことを、朝食に出された獲り立てのイカ・ソーメンを食べながら知った。 この日は午前中に、自衛隊の通信基地(としか聞いていなかったが)がある、島の中心の 小高い丘に車で向かい、町の保養施設の温泉に浸かり、その足で空港(といっても、小さ な小屋が立つだけの広場だった)から函館空港、そして羽田空港に戻ったのだった。 たったそれだけの行動だったが、それだけのことで今でも奥尻島のことが愛着を持って鮮 やかに浮かんでくる。 奥尻島は、以前にこのエッセイ欄で述べた私の母の故郷である、オホーツク海沿岸にある 北の大地「湧別」とは、全く印象が異なった。(注・湧別には19歳の時、奥尻島には29 歳の時に訪れたので、10歳の年齢差と10年の時間差が感情を左右しているかも知れぬ) 母の弟である叔父が「内地の人は北海道をどこも同じに考えるが、道南や道東と北とでは、 全く違うさ。道民はみんなそう思っているよ」と言っていたが、その通りで、奥尻島は海 の豊かな自然に囲まれた、潮風に厳しさがない、ほっとする島だと感じた。 その島が、全域にわたって津波に襲われ、甚大な被害を受けた。 今でも思うのだが、あの宿は漁港が近い海岸べりに建っていた。あの寿司屋もスナックも、 海に近い猫の額ほどの狭い街の中で営業していた。きっと大津波で人も店も皆、流されて しまったに違いない。 歳月も流れたので、復興後の奥尻島の町を見てみたい。 再び1993年。 1月。我が国初の、公的骨髄バンクによる「非血縁者間骨髄移植」が実施された。また、 衆議院の予算員会の代表質問、参議院の決算委員会での質疑対応等。 2月。毎日放送から「10万人目の奇跡キャンペーン」開始され、全国的な放送が翌年3 月まで展開。また、人事院総裁・自治大臣に「公務員である骨髄ドナーへの特別休暇適用」 を要望。骨髄移植の主管部局を対象とした全国保健医療関係主管課長会議の開催等。 3月。関係省庁会議を厚生省特別会議室で開催。NHK「モーニングワイド」を始め、マ スコミ各社から連日の取材。人事院職員局長訪問等々。 4月1日。「国家公務員のドナー特別休暇」が法令により制度化され、同日施行。 その後も、骨髄バンク推進事業に関する会議や出張講演等が続いた。 同年7月9日(金)。私は朝一の飛行機で札幌に行き、午後から「道新ホール」で開催さ れた「北海道骨髄バンクシンポジウム」で講演をしていた。 そして翌日10日の土曜日は、北海道骨髄バンク協議会の事務局長であり北洋銀行の監査 役だった武田氏らと、真駒内カントリークラブでゴルフをして帰京した。 週明けの12日は夏休み計画休暇で自宅に。その夜の10時頃、北海道南西沖を震源とす る大地震が発生したのだ。 私はうっすらとテレビのニュースで地震があったことは承知していたが、翌13日の朝、 TVニュースで生々しい映像を見た。まさか札幌市から南西に少し離れた、それも奥尻島 に近い地点を震源として、大地震・大津波が勃発しているとは青天の霹靂(へきれき)だ った。 この地震も、私にはニアミスだったのだ。 その後、骨髄バンクとは直接に関係が無くなった時季のある日、ボランテイア団体の全国 骨髄バンク推進連絡協議会の運営委員長(注・会長は海部幸世・元首相夫人)から連絡が あった。 それは、地震と津波で破壊尽くされた奥尻島から、長い時間の漂流を経て、1艘の小さな 船「大幸丸」が北陸(?)の浜辺に打ち寄せられたのだが、協議会の委員長がこの船の受 け取り手となり、骨髄バンクの旗と幕を飾り立てたトレーナー車に船を積み、日本各地を 巡回しながら骨髄バンクの普及・啓発活動を展開するとのこと。 その壮行式を昼休みの日比谷公園で実施するとのことだった。 私もすぐに参加したが、命と命をつなぎ、大きな幸せを運ぶだろう奇跡の船「大幸丸」の 壮途(そうと)を祝った。 思えば、奥尻島を訪問してから15年余が経過していた。 この続きは次回にでも。 それでは良い週末を。 |