保護司(2)
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父は、目黒区の地域を活動保護区とする保護司だった。 いつ頃から保護司をしていたのかは定かではないが、①敗戦後の昭和24年(1949年) に疎開先の滋賀県から一家で帰京し、目黒区下目黒に住居を構えて天理教の分教会長とし て布教活動を再開していたこと。②「保護司法」が公布されたのが昭和25年(1950 年)だったこと。 そして③第二次世界大戦におけるA級戦犯(注・国際軍事裁判所憲章では平和に対する罪、 b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪が規定されており、その項目aで訴追された者を さす)として終身刑となり、巣鴨プリズンに服役中だった賀屋興宣(かやおきのり)氏が、 昭和30年(1955年)9月に仮釈放されたこと。 これらのことから、父は昭和25年から少なくとも昭和30年までの間に、法務省から保 護司に委嘱され、その活動を始めていたものと推測される。 なぜ賀屋氏の仮釈放が関係するのか? それは、賀屋氏の仮釈放後、父が保護司として賀屋氏の保護観察(面接・指導)にあたっ ていたからだ。 当時、賀屋氏は66歳、父は45歳、私は小学2年生だった。 私は父と母が、手短(てみじか)に賀屋氏の話をしているのを何回か耳にしていた。だが、 直接父や母から聞いたことは無かった。 賀屋氏とは誰なのか?何の話をしているのか?私にはわからないし興味もなく、すぐに忘 れてしまっていた。 そもそも保護司という言葉も聞いたことがないし、どんな人なのかも知らなかった。それ からしばらくすると、父が保護司であり、その活動をしていることがわかってきた。 時々、緊張した暗い表情の少年や青年が家にやってきて、玄関でしばらく父と静かに立ち 話をする。時には長話をする。終わりがけに「トモヒト、書斎からハンコを持ってきてく れ」と茶の間にいる私に声がかかる。 私は急いで父の書斎から認印を持っていくと、父はカードのような紙に印を押し「ご苦労 さん。頑張ってな」と声をかけてカードを手渡す。すると来訪者はお辞儀をし、小さな声 で「失礼します」と礼を言って帰っていくのが通例だった。そうしたことが重なっていく うち、日頃から父が「今日は保護観察所で・・」「少年院の・・」と母に話している内容 を耳にしていたので、これらの面接は少年院などから出てきた青少年の更生保護の活動な のだろうと、うっすらと理解していった。更生保護という言葉は、確か同名の月刊誌が父 宛に郵送されていたので知っていた。 前回でも述べたが、保護司の主要な活動として「保護観察」があり、月に2~ 3回、自宅 に招くなどして面接を行い、相談や指導をする。 対象となる人は、 ①家庭裁判所で保護観察に付された少年(原則20歳まで) ②少年院からの仮退院を許された少年 ③刑事施設からの仮釈放を許された人 ④裁判所で刑の全部又は一部の執行を猶予され保護観察に付された人 賀屋氏は③に当たるのだろう。 賀屋氏が私の家に面接に来る時は、予め電話で日時と父の都合を尋ねてからくる。その電 話は家から歩いて数分のところにあるタバコ屋の電話にかかってくる(注・当時はまだ電 話がある家は少なく、こうした電話の取り次ぎをしてくれる親切な店が多かった)。 それをタバコ屋のおばちゃんが、私の家まで走ってきて母に伝え、その伝言を帰宅した父 に報告していた。 場合によっては父が折り返しの電話をしていた。 (注・父は、店主の承諾を得てタバコ屋の店の電話番号を、必要な先方に「呼び出し電話」 として登録していた) 賀屋興宣氏は、東大卒業後に大蔵省に入省。主計局長・大蔵事務次官を歴任。 昭和12年(1937年)には第一次近衛内閣で大蔵大臣を務め、1938年(昭和13 年)には貴族院の勅選議員(注・国家に勲功があるか、学識がある者)となっている。 1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時の東条内閣で、再び大蔵大臣に就任し、敗 戦の1945年8月まで務めた。 A級戦犯の第一次指名で逮捕された13名は、主に東条内閣の官僚で、賀屋氏もその一人 だったが、戦時下の予算編成の責任者だったことが大きな要因だったようだ。 そして、巣鴨プリズンに服役してから10年後の昭和30年(1955年)9月に仮釈放 され、保護観察が始まったと推測される。 それから約2年半後の昭和33年(1958年)4月7日付で、同日までの期間を懲役刑の 刑期とする減刑が下され、翌日「釈放」された。 その後、同年9月の衆議院議員選挙に当時の東京3区(目黒区・世田谷区。定員3名)か ら立候補し、トップ当選を果たした。 以後5回連続当選し、岸首相の経済顧問や外交調査会長として日米安全保障条約の改定に 取り組んだほか、大蔵時代の後輩であった池田首相の「所得倍増政策」に尽力するととも に、池田内閣の法務大臣を務めていた。 そして1972年(昭和47年)に、政界を引退したのだった。 (注・その東京都第3区の選挙基盤は、越智道雄氏(注・義父は福田赳夫・元首相)が引 き継いで当選したが、今度は越智氏が、選挙活動の一環だろうが、しばしば挨拶と称して 我が家を訪ねてくるようになった) 賀屋氏の話が長くなりました。父の保護司活動に関することで、私が小・中学生の頃のこ とで、印象に残ったことが幾つかありますが、その話は次回にでも。 それでは良い週末を。 |