東井朝仁 随想録
「良い週末を」

保護司(3)
私の家には、保護観察中の青少年が、父と「面接」を行うためにしばしば来訪していた。
でも、私は来訪者のそれぞれの事柄などは、全く知らなかった。(注・保護司法には「保
護司は、その職務を行うに当たって知り得た関係者の身上に関する秘密を尊重し、その名
誉保持につとめなければならない」とあるので、当然だが)
しかし、「少年院(注・非行や犯罪を犯した概ね12歳~23歳未満の者が、家庭裁判所
の審判の結果で収容される矯正教育施設。非行とは20歳未満の男女が犯した犯罪のこと
で、例えば殺人を犯しても、それを犯罪とは呼ばず非行と呼ぶ)に入っていた人だろう」
ぐらいは推察していた。

私が中学生の頃は、店で盗みをしたことを自慢したり、大人しそうな生徒を見つけては因
縁をつけ、殴って怪我をさせたり、小銭を巻き上げるなどの悪ガキが何人かいた。周囲の
生徒は「あいつは、そのうち少年院に送られるぞ」などと噂していたり、映画でも非行少
年が出てくる作品を観ていたので、少年院の何たるかは承知していた。
しかし、来訪してくる保護観察対象者は、私にはそんなワルには見えなかった。保護観察
に付されている最中だからだろうが。
本来は気の弱い普通の人なのだが、きっと、彼らを取り巻く生活環境が悪く、人を信用で
きず、孤独で、将来に対する希望など無かったのだろうとも思えた。

父は、宗教家としての傍ら、保護司として更生保護の活動を黙々と遂行していた。
毎月10日は、分教会の会長(注・教団組織は、本部→大教会(約100か所)→分教会
(約1万6千か所)の序列で構成)として、自宅の神殿で祭儀・講演・直会を行い、毎月
23日は滋賀県にある上級の大教会の祭典、26日は奈良県天理市にある本部神殿での祭
典に参列。そして月の多くは東京・埼玉・千葉を主なエリアとして信者宅を訪問。年に1
回は上級教会の指示により、地方の数か所の教会を1週間ほどかけて巡教・講話を行った
りしていた。
少なくとも私や兄が成人になるまでは、父の分教会長(宗教法人の代表役員)としてのつ
とめが、いわゆる父の本業であり、それによる信者さんたちの御供え以外、我が家には収
入の途はなかった。
その御供えの中から、毎月、父が大教会や本部に参拝に行くための往復旅費や上級教会へ
の御供え(上納)をまかない、それ以外の残金を、毎月の家族の食費や子供たちの衣服費
・学費・給食費などの家計にあて、さらに月並祭(月に一度の祭典)で神前に供える大量
の酒・魚・乾物・野菜・果物などの購入費など、教会の運営経費一切にあてるのだ。
このため母は、常に家計に四苦八苦しながら、結果6名の子供の養育や家事、信者や地域
の人など様々な訪問者への対応や悩み事相談にあたらざるを得ず、日々、父以上に陰で八
面六臂(はちめんろっぴ)の働きをしていた。
だから、私は中学生頃までは、父がわざわざ無給の「保護司」をする気が知れなかった。
宗教活動そのものが、ほぼボランテイアではないかと。

だが、母が納得して父を陰で支援していることを知り、私も高校を卒業して昼に厚生省で
働き、夜は早大の第二文学部に通学するようになって、福祉や社会学や心理学などを学び、
小説や映画や演劇に触れ、様々な階層の人々との付き合いから社会の実相に触れる機会が
増えてくるうち、父の気持ちがわかってきた。
その考えを端的に述べれば、次の通り。

敗戦後の日本社会の復興期に、法務大臣から委嘱を受けて保護司になったのは、まだまだ
社会の底辺で貧困や孤独や差別に苦しみながら、非行や犯罪に走ってしまう青少年が沢山
いる。民主国家に生まれ変わっても、一度過ちを犯してしまうと、やり直しが難しい国民
の偏見と社会環境がある。宗教も大切だが、教団内(組織内)に閉じこもっているだけで
は駄目だ。
宗派・教団ごとの信者の獲得競争をしているだけでは駄目だ。
「宗派・教団のための信者ではなく、信者や社会の人のための宗派・教団なのだ」
このカッコ内の言葉は、死の間際まで父が語っていた言葉だ。
だから、父は保護司となって、自らの志を有言実行し続けたことは、間違いない。

話を保護司のことに戻して。
私が中学2年の夏休み前のこと。
以前にも何度か書いたが、私が九死に一生(九九に一生が正しい。1%未満の生還確率)
を得た交通事故。それから3か月が経ち、身体(頭部打撲・腰骨の破損)の傷も癒えてき
たが、精神的に鬱屈していた日々のある日。
父が珍しく、本当に何年ぶりかで「浜離宮に行かないか」と、私を外出に誘った。
私は小学校低学年の時に、社会見学で「浜離宮」に行ったことがあったが、「ウン」と言
って一緒に出掛けた。何で浜離宮なのか分からなかったが、黙ってついて行った。
浜松町の駅の裏にある浜離宮は、綺麗な名園だったが、父子二人で回遊するのには、わず
かな時間しかかからなかった。それでも久し振りに山手線に乗り、初めて入園した浜離宮
に気分も少し晴れていた。
すると、父は「ちょっと用事があるから、新橋に行こう」と言って、先に歩き出した。当
然、電車を使わずに歩いて行った。
場所は、駅前広場だった。その広場の楕円形の縁石に、白い手拭いを頬被(ほおかぶり)
した靴磨きが、何人も靴台を置いて靴磨きをしていた。
すると、父はその多くの靴磨きの人の中から、一人の男性を注視し、すぐに近づいて行っ
た。
丁度、その中年ぐらいの日焼けした男の人の前には客がいなく、父が声をかけると、驚い
たように顔を上げた。私は父の後ろに立っていたが、何の話をしているのかはわからなか
った。少し話を交わしただけで父が去ろうとすると、その人が私を手招きし、私に何かを
渡そうとした。
私が躊躇して父の顔を見ると、父は頷くだけだった。
近づいた私の手に硬貨が一枚手渡された。昭和34年(1959年)に発行されていたピ
カピカの穴開きの50円玉だった。私は少し嬉しくなり、お礼を言って父とその場を離れ
た(当時は、アンパンが10円、かけそばが30円程度のはずだった。)

その後、今度は皇居前広場まで歩いて行った。
歩きながら、「あの人は誰だろう。信者さんでもないし・・」「お父ちゃんが僕を誘った
のは、元気が無い僕を気にしてたからだろうか」と考えながらお堀のところまで来て、誰
かに(カメラ・マニアの叔父か?)借りてきた写真機で、近くの人に二人の写真を撮って
貰った(今週の表紙写真「父と」をご覧ください)
その時、「あの靴磨きの人の様子を見るために、浜離宮に行こうと言ったのだ」と確信し
た。
でも「何の用があったのだろう。簡単な挨拶しかしなかったが。やはり偶然に会っただけ
なのだ」とも考えたが、私が帰りの路で「あの人は誰?」
と聞いても「・・・」。
父の表情は明るかったが、何も答えなかった。
私はすぐに「きっと、保護観察で来ていた人だろう」と想像した。
今になって追想すると、当時の父の保護司としての一端を垣間見た出来事だった。

私が中学生の頃、やはりこんなことがあった。
ある日、父が遅くに帰宅し、茶の間で遅い夕食を独りで摂っている際、私が入れたお茶を
飲みながら「今日は疲れた。新宿のある組の組長に会って来たんだ」と、唐突に言った。
「組って、ヤクザとか暴力団とかの組?」
「そうだ。」
「なんでそんなとこに行ったの?」
「保護司として組長にお願いに行ってきた。
保護観察している子の勤め口が見つかったが、そこの組員が邪魔をするようなんだ。だか
ら、この子の将来を思って、今後は関わらないようにしていただきたい、と組長に頭を下
げてきたよ」そう言って微笑しながらお茶を飲みほした。
私は何も言えずに黙っていた。

また、小学5年生の夏休み前のことだった。
ちょうど、小学校教員資格の取得を目指す、大学4年生の教育実習があった。私のクラス
には背が高い男の実習生が担当となったが、どの科目も丁寧でわかりやすい授業だった。
冗談を言うわけでもなく、生徒を叱ったり、大声を出したりする人でもなく、真面目でい
い先生という印象だった。
確か4週間(3週間?)の実習を終えた日に、先生はお別れの挨拶をし、教室を去って行
った。私は後を追いかけ、先生の住所を紙に書いて貰った。
そして、翌週の土曜日の午後(あるいは夏休みに入っていたか)、男友達数人と一緒に、
学校の隣町にある先生(実習生)の家を見つけて訪問した。
小さな2階建ての家で、道路に面した玄関の扉を叩くと、ドアが半分開いて先生が顔を出
した。先生はドアの隙間から「やあ・・」と言ったが、少し戸惑っていた。下はステテコ
で、上はランニングシャツの姿だった。
私は「武蔵小山の商店街に行く途中だったので、ちょっと寄ってみました」と言い訳っぽ
く言った。
先生は一言「どうもありがとう」と言ってくれたが、その後は困惑した表情で「さあ、上
がって」とも「着替えるから、ちょっと待ってて」とも言わず、無言だった。
私はすぐに「先生は迷惑なんだろう」と察し、「ちょっと寄っただけなので、帰ります。
お元気で」と言ってお辞儀をし、皆でその場を去った。
その1週間後、朝日新聞の朝刊の社会面を見て、驚いた。
先生が教育実習した不動小学校で、理科の実験室から顕微鏡を数台盗み、質屋で換金して
逮捕された、という記事だった。
見出しは結構大きかった。
それから10日ほど経った日、家のベルが鳴り私が出ると、何と教育実習の、あの新聞に
載った先生だった。
先生は「お父さんいらっしゃいますか」と静かに尋ねた。
私は動転しながら「はい」と答え、すぐに書斎の父を呼びに行った。
先生が帰ったあと、父が「トモヒトのクラスの先生だったのか?」と一言。
「うん、教育実習で習った」
会話はそれだけだった。
その後、保護観察で何回か来訪していたようだが、私は一度も会うことが無く、ホッとし
ているうちに忘れてしまった。

最後に、母の事も一つ。
父も私もいない日に、保護観察中のAという子が家に来た。
対応したのは母で、夕方、母が私に語ったのはこういう出来事だった。
「玄関に出るとAが開口一番『いま人を刺してしまいました』と母に告げた。見ると、血
がついたシャツで、手にナイフを持ったままだった。
母は心を静めながら『今から一緒に交番に行きましょう。交番に行ってちゃんと話すのよ』
と諭(さと)し、、素早くナイフを取り上げ、母はそのまま下駄を突っかけ、Aの片腕を
両手で抱えながら、目黒通りにある油面の交番(注・徒歩5分ほど)まで連れて行った」
とのことだった。
「怖くなかった?」と聞くと、「その時は、何とかこの子を連れて行かなければと夢中で、
何も感じなかったけど、送り届けて帰ってきてから、急に震えが出て止まらなかったわよ」
と真面目な顔で語ってくれた。

父は77歳で死没(出直し)した。
それまでの間、目黒区内の各宗教団体の代表者からなる懇話会を多宗派と共同で設立し、
祐天寺や目黒不動などの住職やキリスト教会の牧師等と定期的に懇話会を開催するととも
に、自民党や社会党の都議や区議とも、地域の事で親しく情報交換をしていた。
保護司の任期は2年。再任あり。
再任時の年齢は76歳(任期は77歳まで可能と、規定されている。)
こうして考えると、保護司活動は父の人生の大半に、色を添えたといえる。
その色は、赤い羽根の共同募金の赤でもなく、緑の週間の緑の羽根の緑でもなく、その2
色を混ぜ合わせた黄色だろう。
今月は「社会を明るくする運動・強調月間」
保護司が全国で活動している。
そのシンボルは「幸福(しあわせ)の黄色い羽根」とのこと。

私は、父の唯一の遺品となった(生前、貸して貰ったのを返さなかった)ニットの黄色の
ネクタイを締めて、都下にある墓苑に墓参りに行くとします。

それでは良い週末を、良い夏を。