東井朝仁 随想録
「良い週末を」

大谷選手とドジャース(3)

大谷選手が所属する大リーグのドジャースが、レギュラーシーズン(全162試合)の地
区優勝を果たした。
ご承知の通り、大谷選手は54本塁打・130打点で本塁打王と打点王に輝いた。打率は
首位に3厘差の3割1分で2位。3冠王にはならなかったが、そんなことは本人も最後の
試合まで「あまり考えていなかった。どのくらいの差か、分かっていなかった」と答えて
いたように、私もさして落胆はなかった。それより本塁打王と打点王の2冠、それに59
盗塁が素晴らしかった。
さらに23年ぶり史上19人目の「400塁打(411塁打で両リーグトップ)」、日本
選手初となる「トリプルスリー(打率3割・30本塁打・30盗塁)」など、多くの偉大
な記録を達成した。
まさに様々な「記録・記憶を塗り替え続けた」(朝日新聞の見出し)彼のレギュラーシー
ズンでの活躍ぶりには、「感激」の一言しか出ない。

大谷選手のシーズン後半の関心事は、マスコミも連日のように報道していたように、過去
5人しか成し遂げていない「40本塁打―40盗塁」の達成にあった。
そしてそれは、8月23日に達成された。
だが大谷の凄さはそれからだった。
9月19日には、史上初の「50-50」を達成。最後に「54本塁打、59盗塁」とい
う、今後、殆ど破られることがないであろう大記録を打ち立てたことだ。
その結果、彼がドジャースに移籍した時からの最大の悲願である、ワールドシリーズ優勝
への第一関門の地区優勝が叶った。
地区優勝を祝うシャンペンシャワーを浴びながら、大谷選手は「ドジャースに移籍して良
かった」と痛感していたことだろう。

話はかわって。
私は今、2013年に上映された映画を想い出している。
題名は「42 世界を変えた男」。
アフリカ系アメリカ人が初のメジャーリーガーとなった背番号42の「ジャッキー・ロビ
ンソン」選手の苦難と栄光を描いた、感動の野球ドラマ。
第二次世界大戦が終わってすぐの1945年8月28日、「ブルックリン・ドジャース」
(注・当時はニューヨークのブルックリン区が本拠地)のオーナー(役はハリソン・フォ
ード)は、米プロ野球界に蔓延した肌の色による人種差別に対して反旗を翻し、黒人のジ
ャッキー・ロビンソンをチームに迎え入れた。
それまで野球が好きで黒人リーグで活躍していたジャッキーは、信じられない驚きと緊張
を抱いてオーナーと面会した。
オーナーはジャッキーにこう尋ねた。
「様々な罵声や差別を受けるが、やり返さない勇気があるか?」
「勇気で答えます」
「そうだ。やり返せば非難されるのは黒人だ。立派な紳士になることだ。
偉大な選手になることだ」

それから二人は、様々なバッシングを受け続けることとなる。例えば。
・ある夜、他チームのオーナーからドジャースのオーナーに電話が入る。
「黒人を出すなら、うちはおたくのチームと試合はしない」
「どうぞご勝手に。うちが不戦勝になるだけだ」
・チーム内では監督や主力選手が「黒人と一緒にプレーできない。出すならドジャースを
辞める」
「辞めたければ辞めろ」
そうして、監督や何人かの選手がトレードに出される。
・チームが遠征先のホテルに辿り着き、玄関を入ろうとすると。
出てきたマネージャーが「満室です」。
「予約しているだろう?!」
「オーナーから予約はするなと言われています」
結果、ドジャースの選手たちは他のホテルを探しに。
・ジャッキーがメジャーリーグの試合に出場した時。
相手チームの監督がグランドに立つと「二グロはアフリカの草原に立っていろ」とやじり、
観客席からも聞くに堪えない罵声がジャッキーに浴びせられる。

しかし、ジャッキーは我慢をし続け、得意の俊足で堅守と盗塁を重ね、打率を上げて行っ
た。
チームのメンバーも、そんなジャッキーを心の中で認めてきた。
例えば試合後。
我先にとシャワー室に飛び込み、シャワーを浴びている中、ジャッキーは最後の一人にな
るまで、廊下で立って待っていた。
そうした彼に、チームの一人が彼に声をかけた。
「聞いてもいいかな。ジャッキー、なんで皆が済むまでシャワーに来ないんだ?恥かしい
のか?」
「誰にも嫌な思いをさせたくない・・・」
「俺たちはチームだ。君のお陰で勝ち続けている。
君は誰よりも勇敢だ。なのに・・・シャワーがこわいのか(笑)
「来いよ。一緒にシャワーを浴びよう。いや・・誤解するなよ」

だが、こんなことが対カージナルス戦で起こった。
試合は白熱の延長戦へ入った10回。
ジャッキーがヒットを打って一塁ベースを踏んだ瞬間。一塁手がわざと彼の足を思い切り
踏みつけ、ジャッキーは悶絶して倒れた。
駆けつけたチームメイトが「医者を呼べ!」と叫び、仲間の投手に「次の回に相手の頭を
狙え!報復してやれ!」と怒る。
すると苦悶の表情でジャッキーは「駄目だ、起こせ、立たせろ!」「打ち取るんだ。報復
はよせ。アウトにするんだ。いいな!試合が大事だ。アウトにしろ。頼むぞ」
皆は頷きながら「お前はタフだな。まかせろ!」と。

病院に入院したジャッキーのベッドに、オーナーが見舞いに来てこう言った。
「今朝、何を見たと思う?空き地を通ったら、白人の少年が打席に立っていた。少年は何
をしたと思う?
「速球を見逃した?」
「君の真似をしていたんだよ。手に土をこすりつけて、腕を伸ばして振っていたんだ。君
のように。白人の少年が黒人の真似をしていたんだ」
「・・・なぜ僕をメジャーに入れたんですか。なんで僕のことをそんなにかばってくれる
のですか?」
(少し間をおいてから)
「我々はドイツのファシズムに勝利した。次は国内の人種差別主義に勝利すべきだ。」
「なぜです?会長、教えてください!」
「・・・好きなんだよ、野球がね。人生を捧げてきた。
40年以上前のオハイオ州大学時代、私は選手兼コーチだった。黒人のキャッチャーがい
て、チームの首位打者だった。チャーりー・トーマス。
いいやつだった。だが、肌の色に苦しみ、傷つき、挫折してしまった。
私は力になれなかった・・・。ろくに彼を助けることが出来なかった。
私の好きな野球界には不公平なところがあったが、無視していた。
だが時はめぐって、もう無視できなくなった。
君が、また野球を好きにさせてくれた・・・。
ありがとう」

1947年9月17日。
ナショナルリーグの優勝をかけた一戦、ドジャース対パイレーツ。
相手はパイレーツのエースで、初対決の時にジャッキー・ロビンソンの頭にデッドボール
を投げていた。
だが、ジャッキーは余裕だった。
3ボールの後、微笑を浮かべながら投手にこう言った。
「ちゃんと投げろ。恐いのか?」
投手は「何?!クソ野郎。望み通り投げてやるよ!」と吐き捨てて直球を投げた。
次の瞬間、バットから放たれたボールはレフトの空へ高く伸びて行き、スタンドへ。この
瞬間、ドジャースは優勝し、ワールドシリーズへの進出が決まった(相手はアメリカンリ
ーグ優勝のヤンキース)

報道記者は、こう語っていた。
「シーズン中、ずっとジャック・ロビンソンは、より大きな使命を達成すべく努力してき
た。それはドジャースのためだけではなかった。
この男には、驚くべき勇気がある。何物も恐れぬ強さで、周りの者を動かし、屈すること
なく変えていく。
だが、野球はテニスではない。チームが必要だ。
まずは仲間になり、受け入れられることに始まり、共に戦ってこそ勝利をつかめる。ジャ
ッキーとチームは、共に戦ってきて優勝をつかんだのだ」

ジャック・ロビンソンの、この年の成績は打率2割9分7厘、本塁打12本、48打点そ
して盗塁29回(一度も刺されず)で、新人王に輝いた。
ちなみに1949年では、首位打者と盗塁王でMVPに選出された。
だが大谷選手同様に、記録ばかりに目が行くわけではない。やはり凄いプレッシャーの中
でも、チームと共に勝利を目指して最大限にプレイする姿勢に驚嘆する。そこに言い知れ
ぬ感動が湧いてくる。
私は、ドジャースに移籍した大谷選手も、きっとこの映画を一度は観ているのではないか
と推察している。

今日は10月4日。
アメリカでは日本時間の10月6日に、ドジャースがポストシーズンの初戦を迎える。
大谷選手がどの様な結果を残すのか、そしてこれから先、どの様な道を歩んでいくのか。
興味が尽きません。
きっと近い将来に「17  大リーグを変えた男」の映画が上映されるのではないでしょ
うか。是非見たいものです。

それでは良い週末を。