想い酒 |
今週のHPに「12月は望年会の日々だった」と題する写真を掲載している。 「ぼうねん会」でも、今年の様々な苦労を忘れる「忘年会」ではなく、来るべき年に望み を託す「望年会」なのだ。私が幹事を務める忘年会は、殆どこの表示を通例としてきた。 その望年会も、勤労者生活を卒業してから、少なくなった。 厚生労働省、環境衛生金融公庫及び国民生活金融公庫、そして厚労省を退職して再就職し た三重県厚生連。これらに勤務していた42年間は、まさに「12月は望年会の日々」だ った。 現在は、そうした師走とは無縁。 気心が知れた仲間との飲み会しかやらない。昔の所属部署のメンバーとか、○○OB会と いった類の集まりには、出る気にならない。 当時の望年会は、厚労省の内外のどの様な人達との会でも、出席して楽しかった。互いが 意気に感じて交歓を図っていたから、大いに飲んで騒いだ。そして数人の有志と二次会へ 繰り出していくのが習いだった。 望年会のない日は、ガールフレンドと二人きりで洒落た飲み屋でデートするとか、心を許 せる友と馴染みの暖簾をくぐり、美酒に酔いしれたりしていた。 したがって、二日に1日は実質的に「望年会」をしていた感じだった。 あの頃のあのような師走の快宴は、もう二度とないだろうし、その気もなくなった。そも そも若い人達のみならず、5~60代の後輩に聞いても、官庁や会社の職場では忘年会の みならず、飲み会そのものが激減したとのこと。そういうご時世なのだろう。 上司と部下、先輩と後輩という日頃の縦社会の職場において、忘年会や親睦会などは、チ ョッピリ「ハレ」の場であり、立場を抜きにして各自、世代間の本音を出し合える貴重な 交流の場だと思うのだが。 時世は変わった。 今日の社会全般においても、だいぶ前から、忘年会などの「昭和的」なスタイルの行事は 廃れしまったようだ。 個々人の価値観や趣向が変わり、若年層・中年層・高年層という年齢階層の価値観に大き な相違が生じ、世代間の断絶が急速に進んでいるように私には感じられる。 だから忘年会の名義で開いた食事会だとしても、話がかみ合わないし、面白くも何ともな いと思う人も多いのだろう。 昔はそれでも、各自に「融通」があった。おじさんも若い者も相手の言葉に耳を傾け、率 直に話をする心の余裕があったと思う。 一言で言えば、今の世の中は、どこを見ても余裕がない。国民の経済的格差は年々拡大し、 多くの国民には経済的ゆとりがない。個人も組織も利己主義・個人主義に陥り、横のつな がりがない。分断されている。みな自分が生きていくことで精一杯。確たる希望もなく日 日を黙々と過ごしているように、私には映るのだ。 そうした点から考えても、老いも若きも一緒に玉杯を交わし、大いに騒いだ望年会という 風物詩は、もはや望むべくもないのだろう。 今年の師走も半分ほど過ぎた。 しかし私は、望年会と称した飲み会には一度も出ていない。 ここで、備忘録的に最近の外での飲酒を記してみると。 11月の最終週は、26日に元設計会社の専務だったT氏と、川崎市・溝の口にある「酒 彩そば」で日本酒の昼呑み。27日は大学時代のクラスメイト(女性)と学芸大学駅近く の閑静な住宅街にある「カフェレストラン」で、ホットワインを飲みながらのランチ。 29日はセカンドハウスの修繕の打ち合わせに佐久市へ。夕方の帰りがけに佐久総合病院 に寄り、N名誉院長と近くの店に入り、ウイスキーのお湯割りと生ビールを飲んで歓談。 30日は渋谷駅の近くの寺に行き、今夏、黄泉に発たれたS氏の墓参りに。帰りに駅地下 の店でビールの一人飲み。 その夕方、バンコク滞在中の次男が出張で来訪。家で日本酒の熱燗を酌み交わす。(以下略) 7月7日は、厚労省時代の後輩T君と、板橋区の常盤台駅近くの蕎麦屋で昼呑みで日本酒 を。8日は再度、佐久市へ。建設業者と打ち合わせ後、佐久市の部長をしている後輩のT 君(注・この文章でTの名前は3人目だが、偶然)と、新幹線「佐久平駅」前の居酒屋で、 夕方から乗車時間まで日本酒の熱燗を酌み交わす。(以下略) これが「12月は望年会の日々だった」昔とは、まるで違う師走の実相。 振り返ると、たかだか忘年会の話から比喩しすぎるが、私(達)は戦後日本の興廃の波に うまく乗りながら、よくぞ奇跡的にここまでこれたものだ、と痛感するのです。 今宵も夕食で、S君が贈ってくれた「八海山」の熱燗を独酌しながら、一口そして一口と、 小さな白磁の盃の酒を口に運ぶでしょう。 そして目を閉じ、喉元をまろやかに潤して溶けていく酒を堪能しながら、はるかな友の顔 を想い浮かべることでしょう。 こうして、私は毎晩のように一人で望年会を味わっているのです。 それでは良い週末を。 |