末世の師走に |
(2015年12月3日掲載) 今年も早や師走の到来。 本来は、東京の紅葉は今が盛りで、青空に向かって黄金色に燃え立つ外苑前の銀杏並木の 下を通りながら、「今年も健康でつつがなく過ごしてこれた。 社会は大晦日まで、クリスマスや歳末商戦で慌ただしくも活気に満ちた日々が続くだろう。 さて、私も仲の良い仲間と鍋料理をつついて熱燗を酌み交わしながら、来る年の希望を語 り合おう」などと、考えていたものです。 それが、今年はまるで社会の雰囲気が変わってきたと嘆息し、師走の情緒を楽しむ気分に はなりません。 例えば私の住む三軒茶屋や通勤路にあたる渋谷などの街の小景を眺めると、合点がいくか もしれません。 店も通りも電車内も人で溢れているのですが、そこには明日につながる「活気」というも のは全く無く、中国人を筆頭とした多くの外国人が闊歩していることと、どこでも黙々と スマホと睨めっこをしている無気力そうな日本人の群れが醸し出す「混沌」が漂っている だけ。 私にはそう感じられるのです。 ハロウインに代表される渋谷駅前の大混雑など、青春のカタルシス(情熱の発露)どころ か、日頃から色々なものに疎外されている者の、一夜の無目的で退廃的な憂さ晴らしのよ う。 そこには匿名だからこその無責任な「蛮勇」を振るう、インターネット上で特定の者や特 定の民族などの罵詈雑言の書き込みをする者の心情と、どこかで通底するものがあるよう な気がします。 彼ら彼女らはみな、孤独で、現状の生活に不安と不満を抱え、将来に希望が持てないのか もしれません。 私達の世代も若い頃はそうでしたが、それでも救いがありました。 それは、「目的をもって頑張れば、きっといいことがある。給料も上がっていく。平和で 民主主義の制度で成り立つ日本は、そういう国なのだ」という、社会への漠然とした信頼 があったからです。 また、日本が徴兵制度を復活させ、自衛隊を国軍とし、他国と戦争を交えるようなことは あり得ない。 その様なことは憲法を変えない限り無理だし、多くの国民が認めない。そう誰もが考え、 将来にわたる平和と安全を確信できたのです。 事実、例外はあるにしろ、社会の発展は続き、年を数えるごとに国民は豊かになって夢も 広がっていったのです(最後は日本中が強欲にまみれて、挫折しましたが)。 それでも当時から、高度経済成長の波から疎外され、労働条件の劣悪な職場で日夜油まみ れになっている労働者や、生い立ちや家庭環境からくる困難から一生逃れられない者も数 多く存在しており、徐々に階層格差が拡大・固定化されていく現状に呻吟し、将来に絶望 している者も少なくなかったのは、いつの世も同じでしょう。 話は転じます。 今でも思い出すこと。 私が中学3年生の時のことです。 ある日曜日に、級友のA君がひょっこりと私の家を訪ねてきました。 私は、学校ではふざけあったり駄弁ったりしていましたが、家の行き来は初めてなので少 し戸惑い、遊びに来たにしては何か言いたそうな暗い顔つきのA君に「何か用だ った?」 と尋ねました。 するといきなり「東井君、君のところの宗教は邪教だから、辞めたほうがいいよ・・」と 言うのです。 「えっ、それを言いに来たの?」 A君の両親は、B新興宗教団体の熱心な会員だということは知っていたので、チラッと予 測していた言葉でしたが、私は一瞬ムカッときました。 でも、これはA君の意思ではないと直感し、「親から折伏に行ってこいと言われたの?」 と尋ね返しました。 すると、小さく頷いて「邪教を信じていると、地獄に落ちるよ。子孫までずっと。そう言 ってこいと言われたんだ。人助けだと、、」と。 「誰にも信教の自由があるんだから、地獄に落ちるからその信仰をやめろとか、そんなこ とを言うべきもんではないんじゃないの」 「でも、知らないで毒リンゴを食べようとしている人を見つけたら、強引にでも止めるほ うが正しいことだと思うよ」 「毒リンゴと決めてかかるのは、独善だよ」 そんなやり取りをしていると、お互いに馬鹿馬鹿しくなり、しばし無言でいました。 ほどなくして、A君は青い空を見上げながら「ああっ、戦争でも起こんないかなあ。 戦争が起こって、みんな滅茶苦茶になればいいんだ。そうすれば下剋上の社会になって、 うちみたいな貧乏の家でも、金持ちになれるかもしれないし、、、」そうポツリと呟いた のです。 その言葉が、今でも忘れられません。 そしてA君は、「もう宗教の話はしない。ごめんね」と寂しい笑顔を見せた後、「東井君 は奈良の天理高校にいくんだろ。僕、手紙を出してもいいかな」と、いつもの人懐こい表 情で聞くので、「いいよ。寄宿舎の住所がわかったら、手紙を出すよ」と答え、別れまし た。 彼とは高校を卒業するまで手紙のやり取りをし、その後、彼が防衛大学に進学した旨の葉 書を受け取ったのを最後に、彼との連絡は途絶えました。 話はさらに転じて。 11月12日のエッセイで、映画「赤ひげ」から、主人公である朴訥な江戸時代の医者 (三船敏郎)の、次の言葉を引用しました。 「貧困と無知さえ起こらなければ、病気の大半は起こらなくて済むんだ。 だが、政治が貧困と無知に対して、何かしたことがあるか?!」 まさに現代の政治を語っているような錯覚に、私は陥りました。 「為政者は国民を施策に従わせればよいのであり、政策の意味を国民にわからせる必要は ない」と。 ここで、誤解がないように私の政治スタンス(といったら大袈裟ですが)を述べておきま す。 私の政治に対する期待は、「自由と民主主義を守り、立憲主義に立脚した、最大多数の最 大幸福の実現を目指す政治」。 言い換えれば「全体主義(個人に対する全体(国家・民族)の絶対的優位の主張のもとに、 諸集団を一元的に組みかえ、諸個人を全体の目標に総動員する思想および体制)は絶対に 反対」ということ。 ですから、これに叶う政党だったら、自民党でも民主党でも共産党でも公明党でも、どこ でもOKなのです。 さて今年、政府は、これを違憲とする大多数の憲法学者の声を無視し、集団的自衛権の行 使容認をし、海外で武力行使が出来るよう「安保法制」を成立させました。現政権は国会 の質疑において「国民の皆様に、しっかりと丁寧にご説明して参りたい」との答弁を常に 繰り返していましたが、テレビや新聞からの報道などからも、国民の多くが法制の内容を 殆ど知らないままに、法律は強行採決されてしまいました(国会議員の殆ども、「安保法 制」について明快に説明できないでしょう)。 さらに、「安保法制」に疑問をはさむテレビ番組は指弾され、ニュースキャスターは更迭 される事態が続出しています。 例えば、NHKテレビの「ニュース9」。辛口で評判だったニュースキャスターは、突然、 今春異動させられました。 政策に対し、多くの国民の疑問を代弁して発したちょっとした言葉が、政府には気に 食わ なかったのでしょう。 同様に、社会の様々な問題を取り上げ、わかりやすく切れ味よく解説することで定評があ ったNHKの時事番組「クローズアップ現代」。そのニュースキャスター・国谷裕子氏は、 官房長官への鋭い質問が官邸に睨まれたとのことで、とかくリアルに政治的・社会的問題 を国民に提供してきた同番組は、来春に打ち切られるということです。 また、TBSの「NEWS23」のメーンキャスター・岸井成格氏は、今年9月9日の同 番組で「メデイアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」と発言したことに 対し、ある任意団体が先月、産経新聞と読売新聞に、「政治的に公平であることなどを定 める放送法に反する」との内容で、異様な全面(一面全部)広告を出して氏を個人攻撃し、 結果、TBSは氏を来春3月に更迭する予定とのこと。 この様に現代社会で、政権批判をするマスコミ関係者がパージされる不気味な事態が進行 しているとしたら、非常に恐ろしいことです。 先のエッセイでも引用した「沈みゆく大国・アメリカ」(著者・堤未果、集英社新書)の 一文を再掲。 「『特定秘密保護法』を無理やり通した陰で、その内容がいまだに多くの国民に知らされ ていないまま、成立した『国家戦略特区法』」。 このように、『TPP』でも『マイナンバー制度』でも、いまだにどんな内容でどんなメ リット・デメリットがあるのか、殆どの国民どころか殆どの国会議員も知ってはいないで しょう。 現に、TPP合意文書は、その概要(97頁)だけ日本語に翻訳されているが、2000 頁に及ぶ全文は、いまだに日本語で公開されていないとのこと。 政府やマスコミは「ワインが安くなる・・」とか些末的な広報をしていますが、このまま 日本語訳の全文が公開されないまま終始してしまうとしたら、国会議員も関係者も一般国 民も、議論の仕様がありません。 医療分野など、気が付いたら国民皆保険制度の根幹を揺るがす事態になっていた、という こともあり得るかもしれません。 非常に安易に物事が進められているのではないでしょうか。 最近、政府は重要政策を国民には「知らしむべからず」で、どんどん先行させているとし か思えないのです。 自民党の内部でも、反対意見が出るなどの熱心な議論がなされた様子は無し。総裁選に野 田聖子議員が立候補を宣言したら、あっという間に引きずりおろされ、みな安倍首相にな びく無投票当選。 野党は自信喪失で四分五裂。国会は全くその機能を果たしておらず、形式化。 こんな政治の劣化は、政党政治の歴史上、初めてのことではないでしょうか。 ごく一部の国家権力中枢による独断専行があるとしたら、きわめて危険で悲劇的なことで す。 最早国民の多くが、それも物事を真面目に捉える人々が、こぞって無気力になり、諦めの 境地に陥ってきているように見える昨今。 社会の「混沌」が、いつ、どのようにしたら「活気」へと変容するのか。 私には全く予想がつきません(強いてあげれば、来夏の参議院議員選挙(あるいは衆参同 時選挙)が最後の機会でしょうが)。 とてつもなく大きな歴史的な曲がり角に、日本も世界も差し掛かっていることは、確かで す。 その事実から目をそらさず、少しでも能う限りの努力を今に尽くし、決して希望を失わず に、新たな夜明けに向かって進んでいきたいと念じている、2015年の師走です。 それではよい週末を。 少し早いですが、良い新年を! |