珈琲を飲みながら(1)
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一億総スマホの時代である。 何をやるにしてもスマホ。 単に電話やショートメールや情報検索をするのみならず、今や仕事の上でも、電車やバス に乗る際も、満員の車中でも、行先場所を確認する時も(「スマホに頼らずに行けないの?」 と言いたくなるが)、飲食店や小売店で支払する時も、通販で色々なものを買う時も、身 分を証明する時も、行政への申請書を提出るにも、すべてスマホ。 私生活全般において、始終スマホを手に取ってアイドルやスターやスポーツ選手などの 「推し活」や、アニメ・ゲーム・コミックに首ったけの人が多い。 ラインなどのアプリで、複数の「お友だち」とメールや写真の交換に明け暮れている人々 も、何と多いことか。 (注・一つの意思疎通の間接的手段で悪くはないが、私は家族間のみで他の人とはやらな い。グループに入ると、知らない人からも、あれこれ写真やメールが送信されてきたり、 友人からでも複数人に配信する内容に、いちいち返信するのが面倒) かように、今やスマホは国民の多くが毎日を生きて行く上での必需品であり、大袈裟に言 えば、その人の人生を支える「寄る辺(よるべ)」になっているようだ。 そして、日頃から鬱積している思いを発散させる場所として、フエイスブックやユーチュ ーブなどのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の場で、匿名の特権で、その 時その時のユーチューバー等の流れを観察しながら多数派の意見に「いいね!」と投稿し、 それ以外の意見にはひどい暴言を吐いてストレス解消を図っている者も少なくないようだ。 こうした社会の状況は、先進国でも同様の様だ。 まさにその一例がアメリカで巻き起こっている「トランプ旋風」の現象だろう。 もはや民主党大統領のように「綺麗ごとばかり述べて、失業と貧困にあえいでいる多数の 国民を、具体的にすぐに救済する政策をとってくれない指導者」より、共和党・トランプ 氏のような指導者を熱望してきた結果だろう。その熱風を選挙戦でもたらしたのが、スマ ホによるトランプのプロパガンダ。 それは、アメリカ経済の深刻な衰退=国民の格差拡大=国民間の分断・対立という現在の アメリカ社会の病巣が生んだ、生きるために必死にパンを求める多数の国民の心に、頼も しく響いたことだろう。 各国ともに、国民間の格差拡大(所得・財産・名誉・高学歴に恵まれた上層階級と、それ らを有しないエッセンシャルワーカーなど多数の下層階級(?)との格差)という社会状 況が深刻化を増している。 日本の格差社会は、資本主義社会における個人の自己責任とか、市場原理に基づく自由経 済の法則などと成金著名人や有識者が唱え始めた、約30年前から社会問題化してきたと 思う。 だが、自民党の連立政権からは何も新しい施策は打ち出されず、「アベノミクス」とかの スローガンばかりはやし立てられ、国民有権者は「どうせ自民党に代わる政権は、日本で は生まれない」と諦め、経済界は「まだまだ日本は米中に続く経済大国だ」という現状維 持的な姿勢から、1995年にバブル経済が崩壊した以降、政治も経済も無為無策で妙手 を打てないまま「日本の失われた30年」が今でも続いているのだろう。 (注・いまや、2023年の国民一人当たりの総所得額は、アジアではシンガポール、香 港、韓国に抜かれている) そうした今の日本で、新聞やテレビや本などは見ないが、スマホ一台は有している一般国 民の不満層の声を、スマホによるSNSの活用を最大化して味方世論を形成し、かっての ドイツの「ナチズム」とか、戦前の日本の「軍国主義」のような独裁政権、あるいは大政 翼賛会政権が日本や世界に誕生してくる気配を、私は深く感じているのだが。 話を戻して。 そうした現在の不安定で閉塞的な社会状況が続く中、昨日、チョコっと嬉しいことがあっ た。 私がほぼ毎日行く、喫茶店チエーン「ドトール」の駒澤大学駅前店。 ここでも、殆どの客は珈琲カップには余り手を付けず、スマホに見入っている。 店の1階は40名ほど、2階は100名ほどの客席数だろうか。 1階は比較的に中高年者が多く、新聞か本かスマホを見ている。時々小さな会話が聞こえ てくるのは女性の二人連れや親子連れ。 2階席はサラーマンや学生ぽい若い人たち。まず誰もが一人客。始終、スマホかノートパ ソコンに向かって指を動かしている。彼らは決まって氷の解けたアイス珈琲のグラスを、 横に置いている。長時間組なのだ。 今年の1、2月は、連日、受験生らしき若者たちで埋め尽くされていた。 その光景は圧巻であり異様でもあった。 だが「ここは喫茶店だ。何時間も席を占有しているが、勉強部屋や仕事場ではないぞ」と 野暮なことを言っても無駄だ。 今や喫茶店はスマホ・パソコンをする喫茶店が主流。「スマホやパソコンをやっても迷惑 にはならない。逆に、ガサガサと音を立てて新聞などを読む場所ではない」などと、当方 が言われかねない。 だから、私は1階席に座る。2階の方が静かだが、学習室か事務室のような、ただただ押 し黙っただけの雰囲気は、私には居心地が悪い。 新聞も読みづらい。 昔はどこの喫茶店も、老若男女、様々なニーズの客がいた。 店の出入り口の方をしきりに見やりながら誰かを待っている人、カップルで微笑みながら 話しをしている人、友人とフランクに会話をしている人、4人ほどで熱心に議論をしてい る人、本や新聞を読んでいる人、束の間の休息に身を浸して目を閉じている人、珈琲をじ っくり味わうように、静かにカップを口に運んでいる人、大学ノートと教科書に顔を寄せ、 黙々と勉強をしている人など、、、。 それらの全ての客の上に、その喫茶店の売りのBGM(音楽)が緩やかに流れており、お 喋りをしている人の声や、店員がたてる少しの作業音などもBGMと混然一体となり、そ れが店内に居心地の良い穏やかな雰囲気を醸し出していた。 それが、私の20代から50代までの「喫茶店」だった。 当時はどこの街にもその様な喫茶店が多くあった。 私は、特に高田馬場・早稲田、お茶の水・神保町などの学生街や、新宿、渋谷などの繁華 街が主だったので、1週間に日替わりで店を変えても、まだ余るぐらいに格好な店が点在 していた。 好きな街の荻窪・高円寺・阿佐ヶ谷あたり、青山・六本木、そして自宅があった目黒駅界 隈も少なくなかった。 だが、最早そうした店は殆どない。時代も社会も変わった。人とニーズが変わったのだ (注・有名な純喫茶とか、カウンターだけの自家焙煎の喫茶店などは少しくあるが、それ らとは異なる、昔の普通の喫茶店が少なくなったのだ。 今から想い返せば、私共は良い時代に良い喫茶店を十二分に楽しむことが出来たのだから、 まさにラッキーだった。 友達やガールフレンドやサークルの仲間たちと、よく駄弁(だべ)った。 今週のHPトップの写真の題名同様、今でもそれらの店を「追憶」して、感慨に耽ること がある(注・「年老いて、想い出のない人生は不幸である」と昔の賢人が述べていたが) もう一度、話を戻して。 私は毎日、家での朝食を済ますとすぐに、朝日新聞の朝刊を片手に家を出て、前述の駒沢 大学駅前のドトールに行く。 それが朝のルーチンになっている。 店まで10分ほどのウオーキングだが、食後の軽い動作で腹もこなれる。 また、自宅での朝一に新聞を読むと、ついつい義務の様に精読してしまい、折角の午前中 の爽快感が萎えてしまう。 1階席での私は、2日に1回は「店のブレンド珈琲(コナ)(270円)」を飲み、次の 日は「モカ・コロンビア・キリマンジャロ・ブラジル珈琲(各420円)」をローテーシ ョンで飲んでいる。 そして、新聞の全面を約30分で通読し、20分ほどスマホからイヤホンで音楽を聴き、 しばしぼんやりしてから店を出る。 それで昨日。 午後から半蔵門へ篠笛のお稽古に行く前に、いつもの1階席で新聞は読まず、軽く珈琲を 飲んでいたら、二つ隣の対面二人掛けの席に、母子の二人の姿が目に入った。若い母親は 椅子に座り、そのテーブルの前に、椅子をずらして乳幼児が寝ているベビーカー(乳母車) が置かれていた。それは、とても平和でおだやかな光景として、私の目に映ったのだ。 この続きは次回にでも。 それでは良い週末を。 |