55年前の大阪万博
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「2025年大阪万博」が、今年の4月13日から10月13日までの期間、大阪の夢洲 (ゆめしま)で開催されている。 そんなことは国民の誰もが百も承知だろうが、私は開催日の4月13日直前に、テレビや 新聞で「入場券の販売数が目標をだいぶ下回っている」「まだ数か国の展示場が未完成」 との報道に耳目を傾けた以降は、殆ど関心もなく忘れていた。 それが先日、漫画の「サザエさん」(注・朝日新聞社発行の文庫判全45巻・長谷川町子著) を見ていたら、「1970年大阪万博」に関する4コマ漫画のページが、何か所か出てき たので、「そういえば、あれから55年が経たのだ」との感慨に襲われ、「今回の万博は どうしようか。行こうかやめるか。まだ10月13日まであるから、涼しくなってから考 えよう」と決めたのだ。 ここで、1970年の大阪万博に関するサザエさんの漫画を幾つか紹介してみる。 それは全45巻中の「第40巻」(昭和44年12月~45年7月分収録)と「第41巻」 (昭和45年7月~昭和46年1月分収録)に載っていた。 万博会場は大阪府吹田市の千里丘陵。期間は昭和45年3月15日から9月13日までの 開催だった。今回の期間より、開始も終了も1か月早く、春の彼岸から秋の彼岸までであ る。 さて、まず最初は。 ① 若い男が飲み屋の角で「まだありますヨ。万国博のおヤド」と、 帰宅途中のオーバー姿の波平(サザエさんの父)に声をかける。 ② 若者:「てすう料 たったの2百円」と右手のひらを出す。 波平:大喜びで100円玉2個を手渡す。 ③ 波平:嘘と知り「ナニイ、でたらめだったのか!」と怒る。 若者:笑顔で「でも、ちょっとの間(ま)、ワクワクしたでしョ」 ④ 若者:「わたしゃこういうニュービジネスで」と悪びれずに言って、「よろこばせ屋」 と書いた幕を背中に垂らす。またも波平ビックリ。 (この当時の詐欺的行為はまだ微苦笑が出るが、宿がすぐに一杯になるのは今も変わら ず。しかし現在の宿泊代はインバウンドの影響で、べらぼうに高いが) 二番目。 ① 一コマ目の右上に「くせ」と書かれている。 会社の重役ぽい社交的な男が、マスオ(サザエさんの夫)の肩を叩きながら「そのうち、 遊びにおいでよ」と声をかける。 ② 知り合いの老人に対しても、「ぜひ、おでかけください」と愛想よく挨拶する。 ③ 海外旅行中のパリで、レストランの店員(太った黒人女性)にも、 「ウエルカム」と言って調子よく名刺を渡す。 ④ 男の自宅で、顔の奥さんから「あーた、万博の帰りに遊びに来るってよ」と、あきれ顔 で言われながら、あの黒人店員の夫婦と子供3人の家族写真が入った外国郵便を手渡さ れ、頭を抱える男。 三番目。 ① 身なりのいい近所の女性が、磯野家の玄関でバックに入った大きなタケノコをサザエさ んに差し出す。 サザエ:「マー、おたかいものを!」 女性 :「買ったんじゃないんざんス。近郊に求めた地所に」 ② サザエ:「ヘー、土地お買いになったの?」 女性 :「すぐそばに駅ができましてネーエ」 ③ 女性 :指を3本立てながら「たちまち三ばい!」と自慢げに。 驚いた表情のサザエさん。 ④ その後、サザエさんが台所でバッグからタケノコを取り出すと、オフネ(母)はバッグ に描かれた万博のシンボルマーク(5弁の桜)を見ながら「バンパクにも行きましたっ てことネ」と一言。 四番目 ① 銭湯の浴槽で、近所のおばさんがワカメに「バンパク行った?」と聞く。ワカメ「まだ」 と。 ② おばさんは「行ったわ!」と自分を指さしながら得意げに。 ③ おばさんは、今度は後ろで湯に浸かっている、矍鑠(かくしゃく)としたおばあさんに も「アノー、バンパクは?」とたずねると。 ④ おばあさんは「言わずもがな」とばかりに、黙って左足を浴槽の縁にでんと乗せる。 その親指のマメを見て、おばさんは「あ、いらしたンざんすネ」と目をむく。 といった具合に、当時のサザエさんの漫画には、チョクチョク万博の話が出てきて面白か った。 また、当時の日本の社会状況が、著者の庶民的な目線でユーモラスに描かれており、ちょ っとした戦後の時事や東京の風物を知ること(想い出すこと)が出来て、うれしい。 例えば、前述した第40巻目の一頁には、こうある。 ・ページの頭に「やくしん日本」と書かれており、その横にテレビが。 アナウンサーが日本が世界第一のものを解説している。 捕鯨・造船・衣料・トランジスタ・ラジオなど。 これを食い入るように見ているカツオと波平。 波平はおもむろに懐からのし袋を取り出し、カツオに手渡す。 カツオは低頭して有難く頂戴。 のし袋を開けると中から500円札が一枚。 がっかりした表情のカツオの後ろで、テレビからは「ただし、個人所得はズンとおちるの でありまス」という声が流れている。 まさに昭和45年、1970年の日本の一面だった。 (現在は、世界に冠たる製品・技術は見当たらず、相対的貧困率もアメリカや韓国にも抜 かれ、先進国で最も貧しい状況にある) 55年前、1970年の日本は高度経済成長期にあり、アメリカに次ぐ世界第二位の経済 大国になった。日本中どこもここもで活気があった。 一方、大気汚染などの公害の深刻化、日米安全保障条約の改定に絡む過激な大学紛争の広 がり、武装闘争による体制打破を図る過激派のテロ事件(日航機ハイジャック事件等)な ど、様々な社会的問題も露呈してきていた。 それでも、東京オリンピックに続いての世界的ビック・イベントである大阪万博は「人類 の進歩と調和」をテーマに、日本国民に自信と希望をもたらせていた。 それから55年後の今、再び大阪万博が開催されている。 だが、私の関心の薄さからだろうが、テーマも博覧会の趣旨も知らない今回の大阪万博は 盛り上がりに欠けたまま。私も今だ心が踊らない。国民の多くが待ち望んだ万博、という 感じが全くしないのだ。 それは私の周囲に、たまたま「万博に行ってきたよ。良かったよ」という人が、今だ一人 もいないからだろうが、それだけではない。 前回の「1970年大阪万博」とは、大きな彼我の差を感じる。 その要因の一つを、作家の高村薫氏が7月3日(木)の朝日新聞でこう述べている。 (道路の陥没、上下水道・ガス管の老朽化による破裂、なにごとにも先見を通さずにその 場限りの対応をしてきた政治・行政・企業そして『今だけを見、見たくないものは見ない 国民的資質』などを述べて) なにもかもガタがきた。この感じは近年、社会の至るところで目にするものである。 例えば、明確なテーマを欠いたまま、めぼしいコンテンツを寄せ集めただけの大阪・関西 万博がある。 1970年の万博と比べれば、個々の展示にかける意気込みも創意工夫も費用も大きく見 劣りがし、よく言えばSDGs、悪く言えば安普請のやっつけ仕事は目を覆うばかりであ る。 もともとテーマの設定にも無理があったところへ、無理に税金をつぎ込んで強行してみた ものの、いまや国力の衰退までは覆い隠せなかったと言うべきか(以下略)」 話は1970年の大阪万博に戻り。 私は1970年(昭和45年)3月20日(金)の夜、前年に開業した国鉄(現JR)の 東名高速バスの夜行便「ドリーム号」に乗り、東京駅から大阪の梅田駅前まで行き、電車 に乗り換えて万博会場に辿り着いた。 バスの車内では、乗客の殆どが目をつぶって眠りに就こうとするか、既に寝ている者が多 かった。 私も同様だったが、うつらうつらしている間に大阪に着いていた。 日は明けて、土曜日の朝7時頃だった。 降車したら、立降りた駅周辺の通りはまだ静かで、春浅い朝の大気は冷たかった。 私は開場まで時間があるので、近くの喫茶店でモーニングをとろうと考え、周囲を見渡し ていた。その時、同じバスから降車した人らしい、私より年上の男性が私に声をかけてき た。 同様の考えだったので、連れ立って近くの通りを探索すると、すぐに喫茶店が見つかった。 開店早々で店内にはまだ誰も客はいなかった。 そして淹れたての珈琲と皿の上のゆで卵・トースト・サラダを食べながら、話を始めた。 深い珈琲の味が身体に沁み、ようやく頭が覚醒した。 すると気分も解放され、これから行く万博会場に心が弾んだ。 私よりやや背丈の低い男性は、確か私より5,6歳上で、御殿場から来たとのこと。明る い性格の人で、初対面の印象は良かった。 仕事は何をしてるか聞いたら「歌手です」というので、「プロのですか?」 と聞くと「ええ。ビクターの専属です」と言って名刺をくれた。 そこには確か、ビクター専属歌手・ふじかわ健造」と記されていた。 私は「ビクターなら、橋幸夫も三田明もフランク永井も専属だが、この人も流行歌手か?」 と思い、「ジャンルは歌謡曲ですか?」とたずねると「いや、民謡です」ということで、 腑に落ちた。 色々お喋りし、お互いに住所を交換した。 それから二人で万博会場に向かった。到着したら会場の正門前は人が群れており、幾つも の入場券売り場には行列が出来ていた。だが、それぞれの列も数名ほどが並ぶ程度で、速 やかに入場することが出来た。 私は歌手の彼と太陽の塔を起点に、次々と各パビリオン巡りをし、写真を撮ったりした。 だが初めの幾つかのパビリオンはスムーズに流れたが、アメリカ館やカナダ館などは長蛇 の列で、あっという間に1時間待ちの看板が最後尾に立てられた。 気がつくと彼と別れ別れになっていた。 私は夕方まであちこちを見て回り、その日の夜に再び大阪の梅田駅から、東京行きのバス に乗車し、日曜日の朝に帰京した。 数日後、ふじかわさんから手紙が来ていた。 本名は小藤健造だった。 それから毎年、年賀状の交換を続けた。 時に写真葉書で、女装をした舞台の上の歌唱中の姿が送られてきた。 熊本の民謡(熊本甚句・お座敷歌?)の「おてもやん」を、厚化粧で滑稽な不美人の顔に 仕立て、歌いながら踊って観衆の喝采を浴びていたのだろう、と推測した。 この10年ほど前からは、老人ホームや地域の会館での公演を続けている旨が添え書きさ れ、数年前からは「55年ぶりの大阪万博で、お会いできるのを楽しみにしています」と、 書かれるようになった。 それが2年前の正月、50年以上も前から続いていた年賀状が、ぷつりと来なくなった。 「どうしたのだろう」と気になったが、正月が過ぎたらすぐに忘れていた。 そして去年の末に、喪中の挨拶が葉書で届いた。 本来はテーマがどうあれ、パビリオンが何であれ、今頃は「55年ぶりの二人の大阪万博」 を成功させていただろうに・・・。 でも、前述のサザエさんの漫画と同様、55年ぶりの大阪万博と小藤さんが「ちょっとの 間(ま)ワクワクさせてくれた」のは事実だ。 小藤さんに感謝をしたい。 今度、飲み屋で「おてもやん」の歌でも威勢よく歌おうか、などと考えるこの頃なのです。 それでは良い週末を。 |