東井朝仁 随想録
「良い週末を」

人生の季節は一度だけ(2)
前回のエッセイでは「今日の最高気温の予報は33度。真夏日」などと、今年もまた猛暑
の夏が到来したことに触れてから、私が小学生の頃(昭和30年代前半)の夏休みの話な
どを、思いつくままに述べてみた。
すると数人のかたから、それぞれ、子供の頃の夏の想い出についてのメールが返信されて
きた。
みな、当時を懐かしむ心優しい内容で、興味深く読ませていただいた。
その中の一文を紹介させていただくと。

「私は、小学校6年まで港区芝浦という所に住んでいました。
今から70年前です。終戦後の街には、沢山の廃材やごみがありました。
昭和25年の朝鮮動乱によって、日本の産業経済が活性化して町の工場も忙しくなってき
ました。
大人たちは働くことに、日々の生活に大変でした。子供たちは、毎日暗くなるまで遊んで
いました。
私は、近所の友達といつも草野球でした。それに、昆虫取りの網を買って貰って、セミ、
トンボ、チョウを追っかけていました。遠くの海や山といった行楽地へは、全くいけませ
んでした。生活にゆとりが無かったのでしょう。両親には目標がありました。焼け跡から
の平和で豊かな生活です。親が出来なかったこと、失ったことを取り戻したい。子供たち
3人を大学まで進学させることやマイホームを建てることでした。目標に向かって黙々と
働き節約していました(以下略)」

「朝鮮動乱」とは、第二次世界大戦末期に、アメリカが日本の降伏後の朝鮮の将来を想定
し、戦争終結後は「朝鮮半島の北緯38度線を境に、ソ連統治の北朝鮮(当時名は朝鮮民
主主義人民共和国)とアメリカ統治の韓国(当時名は大韓民国)に分割する」案を、連合
国内で決定。1945年12月のモスクワ会談では朝鮮統治は米・英・中・ソ4か国によ
る最長5年間の信託統治とすることで合意がなった。
だが、終戦後すぐに米ソ間の冷戦が始まり、1950年6月に突如、北朝鮮が38度線を
突破し、南の韓国に進攻。朝鮮戦争が始まった。反共産主義のアメリカは、国連安保理事
会で国連軍の結成と韓国への支援を諮り、南北朝鮮の内乱に軍事介入。しかし中国はアメ
リカの攻勢に対して人民義勇軍を派兵。戦争は一進一退を繰り返し、戦争が停戦したのは
3年後の1953年(昭和28年)7月だった。
この間、米軍の兵站基地となった日本は、米軍が調達する「特殊需要」(食糧や武器など
大量の軍需物資や兵器・車両の修理など種々のサービス)によって、いわゆる「特需景気」
に湧いた。
「皮肉にも戦争が日本の経済復興の礎」になったのだった。

この昭和28年7月は、私がまだ小学校に入学する1年前の、6歳の夏であり、こんなこ
とがあった。
私が、トウモロコシが一面に植えられた庭の畑(注・食糧確保のため、季節ごとにジャガ
イモや大根なども植えられていた)にいると、遠くから恐ろしいほどの轟音(ごうおん)
が鳴り響いてきた。風圧で家の窓ガラスがガタガタと不気味な音を立て始めた。驚いて空
を見上げると、米軍のB-29爆撃機だった。
当時の自宅は目黒区下目黒にあり(注・隣の大田区に羽田空港がある)上空は様々な飛行
機の空路となっていたので、一日に何回も色々な飛行機が飛んでいた。その中でも、第二
次大戦末期に日本の各地を空襲し、特に敗戦年の3月に東京の下町を焼き尽くし、8万人
以上の都民の命を奪ったアメリカのB-29爆撃機(注・父に教えられた)が飛来する姿は、
いつ見ても不気味だった。
当時はまだ、アメリカの進駐軍のジープや軍用トラックが頻繁に主要道路を走っていた。
しかし私は、日本の隣の朝鮮半島で戦争が続いていることは知っていたが、戦争の原因や
実態などは知る由もなかった。
「日本はもう二度と戦争はしないのよ」と母から聞かされていたので、夏の青空を轟音を
立てて米軍の飛行機が横切っていても、子供心に「日本は平和で戦争は関係ないんだ」と
安心して遊んでいた。

第二次世界大戦の敗戦日(1945年8月15日)から今年で80年目の夏。
朝鮮戦争終結(1953年7月)から、今年で72年目の夏。
そして私にとっては、人生で78回目の夏。
今年の夏は、一体何が終結して何が始まるのだろうか。
「日本の平和な夏」は、あと何回続くのだろうか。
わかることは、地球の気候変動がさらに激しくなる中、日本の夏の期間は徐々に長くなり、
秋や春の時季が短くなるとしても、夏季は毎年やってくるだろうということ。
しかし、人生の季節はたった一度だけ。
だから私の人生の夏は既に過ぎ去っており、現在は秋季の後半にいると認識しているので
す。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。