東井朝仁 随想録
「良い週末を」

人生の季節は一度だけ(5)
前回のエッセイで「自分の人生の四季を年令的に区分すると、青春は0歳から30歳、
朱夏は31歳から60歳だった。そして白秋は61歳から80歳、玄冬は81歳から死没
まで」と述べた。

実は、このような推断をしたのは、昔からではなく最近になってからだ。
最近といっても既に6年前になる2019年の時だった。この年の4月末までは「平成」
だったが、5月1日に元号が「令和」に改称された。
時代の節目にあたる年だった。

今から考えてみると、令和元年にあたる2019年は、日本は政治や経済などのあらゆる
分野で改革の遅れや倫理の欠如、制度の劣化が指摘され始めた頃だった。世界では第三次
世界大戦勃発を予見させるような狼煙(ろうえん)が、あちこちで上がり始めていた。
まさに時代が急変する節目の年だった。

日本では2019年7月の参議院選挙で自民が勝利。以降、長期にわたり安倍・自公政権
による国会や弱小野党の軽視・裏金問題等の政治倫理の欠如が、野放図に続いてきた。さ
りとて与野党共に政治家の劣化が進み、多くの国民が期待するような政党や指導力のある
日本丸の船長も見当たらないできた。こうした旧弊に甘んじ何も改革が進まない政治状況
が続く中、今年7月の参議院議員選挙では、突如「民主専制政治」を目指すような新党が
出現し、大躍進した。
その一つが参政党で、支持政党を投票する比例代表では、なんと約743万票を獲得した。
野党第一党の立憲民主党の約740万票を上回り、全政党中で自民、国民に次ぐ第3位。
公明より約220万票、共産より約455万票も上回っている。

民主専制政治とは「形式的には選挙や議会などの民主的な制度を残しながら、実質的には
一部の強力な指導者や政党による、他の意見を排除する強権的・独裁的政治体制」をいう。
今後、参政党を先頭に、幾つかの新党も「民主専制政治」を志向するのかどうかはわから
ないが、今回、743万人もの有権者が参政党を支持したことに、私は驚愕した。

その理由の一つを挙げると。
現代国家の憲法には基本的に「国の統治機構」と「人権規定」の二つが必要とされている
のが普通だが、参政党が2年の歳月を要し、今年5月に作成公表した「新日本憲法(構想
案)」には、人権規定がないのだ。
現在の日本国憲法は、国民主権主義・基本的人権の尊重・永久平和主義の三つを基本原則
とし、全103条から構成されているが「新日本憲法」の条文数は、わずか33条。
ざつと見ると、「平等原則、財産権、拷問の禁止、集会・結社及び言論・出版その他一切
の表現の自由、信教の自由、学問の自由、居住・移住及び職業選択の自由」などの人権規
定が無い。
そして「第1条 日本は天皇のしらす(統治する?)君民一体の国家である」「第1条2
天皇は、国の伝統の祭祀を主宰し、国民を統合する」に続き、「第1条3 天皇は、国民
の幸せを祈る神聖な存在として侵してはならない」と規定している。
この第1条3項の条文は、戦前の「大日本帝国憲法」(明治憲法)の「第3条 天皇ハ神
聖ニシテ侵スヘカラズ」と同様。
また、「第9条3 国語と古典素読、歴史と神話、修身、武道及び政治参加の教育は必修
とする」との規定もある。
どうも「国民は臣民として、天皇および国家(独裁政権)に対し忠誠を尽くすことが最高
の道徳」とされていた戦前(明治憲法時代)の国体へ回帰することを志向している感じが
してならない。

また、今回の参議院議員選挙で、「ポピュリズム」の台頭を痛感した。
ポピュリズムは、国民のための政治を掲げながら、自らを一般大衆の代弁者とアピールし、
既存政党や官僚や大企業やマスメディアなどの、いわゆる従来の特権的なエリート層など
を「敵」とみなし、これに対決する図式を作って、大衆の不満や要求をかきたてる。
そして、問題を単純化して公約とし「私は1年以内に必ず○○を廃止する!」「在日外国
人を野放しにしてはいけない。日本人ファーストだ!」などと、感情的に有権者に檄を飛
ばす演説で、一般大衆の心をつかむ政治活動。
アメリカのトランプ大統領が良い例だろう。「反移民・反エリート階級」を叫んで大衆を
熱狂させ、意にそわない者は切り捨て、自己の政策に従わない組織や団体に対して容赦な
く圧力(国家補助金の打ち切り、指導者の解任など)をかけて屈服させる。
「自己の間違いがあっても、それを絶対に認めない。謝罪しないこと。相手の欠点は徹底
的に責めること。自己の成功事例はどんなことでも大々的にアピールすること。それが最
高の指導者になる要諦」
私は以前、トランプ氏が初めて大統領になった際に、氏が師事した哲学者から、そう助言
されていたというレポートを読んだことがある。
今まさに、その通りの発言を繰り返しているトランプ氏の姿が、連日のようにテレビから
流れている。
そうした国内外の状況の中、日本丸の先行きは全く不透明で、航海図のないまま波に揺ら
れて流されているのが、今の日本と私は感じている。

話を戻して。
2019年7月には京都アニメーション放火事件が発生。死者36人という戦後最悪の放
火事件となって国民を震撼させた。そしてそれ以降も様々な大量殺人事件や放火事件、衝
動的・猟奇的事件が頻発している。
10月には台風19号が上陸。関東・東北を中心に記録的な大雨と河川の氾濫によって甚
大な被害が出た。その後も毎年のように甚大な自然災害が多発。毎年エスカレートする夏
の猛暑でも痛感させられるが、日本の気候は著しく変わってしまった。
一方この年、世界では米中貿易戦争が激化した。
アメリカと中国が互いに報復関税をかけあい、世界経済に悪影響を与えた。
今年も同様に、アメリカは世界各国に対し過酷なトランプ関税を課しており、今後の日本
及び世界の経済が大不況に陥る懸念が指摘されている。
かててくわえて、翌2020年3月から2023年5月までの令和初期には、新型コロナ
のパンデミック(世界的流行)が国内外を震撼させた。

こうした2019年の状況は年々エスカレートしており、今後は、日本でも世界でも戦後
80年の歴史認識や基本的な世界の価値観は放逐され、これらに代わって人類史上におけ
る異次元の出来事が、新たな人類史を刻んでいく気がするのだが。

後の世の日本の歴史教科書には。
「令和の時代、世界は自国第一主義に走り、それまでのグローバル資本主義(自由貿易主
義)や議会制民主政治が衰退し、多くの先進国で国民の自由と平等の権利が制限され、世
界の分断と対立が激化した。日本は二大覇権国のアメリカと中国の狭間で、外交・防衛・
経済政策が迷走し、国家財政は一段と悪化し、経済は長期不況に陥っていた。国民の間に
は政治と行政に対する不信と怒りが渦巻いていたが、根底には所得格差や階層格差の拡大
に対する不満とインフレ不況からくる生活苦があった。このため殺人や強盗などの犯罪が
増加し、社会の治安が悪化していた。
戦後80年間で成熟した日本の議会制民主政治は民主専制政治に代わり、国民の政治的無
関心とスマホ依存症(国民の多くはテレビや新聞を見ず、情報源はもっぱらスマホからだ
った)がまん延する社会状況が続く中、日本は、いつしか核戦争を想定した軍事大国へと
変貌していった。
それは令和恐慌の時期、第三次世界大戦の前夜とも言えた時代だった」などと記載される
かも知れない、と言ったら大袈裟だろうか。

話を本題に戻して。
今考えると、平成から令和に元号が変わったあの年は、まさに日本にとっては節目の年だ
った気がする。
そして古希を過ぎて71歳になった私自身にとっても、ある種の人生の節目を感じていた
時でもあった。
その2019年1月のある日、私は本屋の新刊本コーナーにあった五木寛之氏の本「白秋
期」(発行:日本経済新聞出版社)を何気なく立ち読みしてみたら、すぐに興味が湧くペ
ージに当たった。
そこには「現在の百歳人生に照らしてみると、およそ人生後半の50代から70代後半ま
での25年間ぐらいが、いま実質的な白秋期と考えていいでしょう。白秋期は晩年ではな
い。フィジカルには様々な問題を抱えていたとしても、いまの50歳から75歳までの時
期は、むしろ人生の収穫期ではないかと、私は思う。実りは静かにやってくる。それを大
切に育てるのが白秋期の仕事だ」と述べ、白秋期を悔いなく生きるための様々なヒントを
提唱していた。

この時、改めて自分の人生における「今」を考えた。
私は、本屋からの帰りの路をそぞろに歩きながら「俺の青春期はいつ頃までだっただろう
か。熱く燃えてフル回転で行動していた朱夏の時代は・・」などと、それまでは一度も考
えたことのない『人生の四季』に思いを馳せた。
様々な過去のことを回想しながら、春夏秋冬のそれぞれに当てはまる年令を模索した。が、
それは余り意味がないことのように思えてやめた。
考えるとしたら、残された四季を冷静に見据えることであり、それは現在の白秋と、すぐ
後の玄冬の二つだった。
「もうすぐ後期高齢者(75歳)になる俺の白秋は、一体いつまでになるだろうか?いつ
までにしようか。それより残された白秋期をどう生きるかだ」ということに気付き、心が
神妙になった。
そうしたことがつい先日のことのように思えるが、あれから早や6年半の月日が流れた。
(昔、毎年正月になると、新年の誓いの言葉を手帳の冒頭頁に記していた。そこでしばし
ば明記していた言葉が『考えるよりも試せ、責めるよりも許せ』だった。他愛のない言葉
だが、ともすると理屈ばかりが先行し、実践が伴わない自己の性格を自省していたことだ
けは事実だった。それはまさしく人生の朱夏の年代の頃のことだった)

既に終了している青春と朱夏の年令は、前述のように「30歳まで、60歳まで」と確定
している。
少し説明を加えると。
青春を30歳までにしたのは、その年令で第一子(長男)が生まれたから。本来は結婚し
た27歳までとも考えた。
しかし、「結婚を祝う会」の約100名の参列者に対して「今日で社会的には青春時代も
おしまい。しかし、あのスローガンにあるように『もう一度だけの青春を!』という気持
があります。結婚は人生の墓場などと揶揄する言葉もありますが、結婚しても行動が変わ
るわけではありません。だから「今までの独身時代の青春とは違う、新たな青春をもう一
度だけ実践するという気構えを表明したかったのです。職場と家庭だけに埋没するわけで
はありません」などと挨拶し、そのスローガンが大書された背後の正面の壁を指さした。
そこには厚生省の職場の実行委員会の諸君が、私の注文を快く受けて作成してくれた大き
な紙が掲示されており、見事なレイアウトでそのフレーズが描かれていた。
「もう一度だけの青春を!」と。
結婚式後の現実は、その通りの日々だった。
なぜなら、結婚前の生活と何ら変わらなかったからだ。
住まいは、配偶者が住んでいた6畳一間のアパート。
そこに、勝手知った私が転がり込んで結婚生活をスタートさせたのだが、私は厚生省、妻
は外務省に勤務し、二人とも帰宅が遅かった。従って独身時代の延長のように、私は殆ど
外食して酔っぱらって帰宅していた。帰宅後は洗面器とタオルを持って、二人で近くの銭
湯に通っていた。
妊娠の気配は2年間無かった。
そんな、昭和の映画「同棲時代」のような日々が続いていた。
だが、私が30歳になって、ようやく第一子が誕生したのだ。
ここで、私の「青春期」は終わったと言える。

次の、60歳までとした「朱夏」の年令も同様のケース。
私は55歳前後で、宮仕えの給与所得者をやめようと考えていた。
「もう、組織労働者はいい。あきた。まだ心身が衰えていないうちに、自分で会社経営を
したい。民間企業の経験をしてみたい。たった一度の人生なのだから」と。
しかし、55歳の春以降、かって上司だった三重県鈴鹿医療科学大学の学長やJA三重厚
生連理事長が再三上京し、三重県厚生連の常務理事就任を懇願された。結果、「常勤役員
には就業規則など適用されず、上司もいないから気分的に自由で面白そう」と考え、転職
した。ただし任期更新もできるが、60歳で退任しようと決めていた。
そして60歳になって2か月後の12月28日付で辞職し、帰京した。
ここで私の朱夏期が終わったといえる。

帰京後、直ちに酒類販売業の登録をし、「丹精ニンニク酒」の製造販売を行う個人企業を
設立し、61歳の春に営業を開始した。
その時が、私の「白秋」の始まりだった。
そしてその白秋期も、あと2年ほどで終わり。 いよいよ最終季節の「玄冬」を迎えるので
す。
色々と思うところがあります。
それは「死ぬということ」を、清閑な心で考えることなのです。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。