| ありがとう
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| 今日は2025年10月1日(水)。 国勢調査の日、共同募金の日(赤い羽根の日)、都民の日。 そして、私の78歳の誕生日だった。 「だった」と書いたのは、実質的に今日の日はもうすぐ終わるからだ。 今の時刻は午後9時30分。あと2時間半で今日の日にさようなら。 先ほどまで、パソコンのYouTubeで「おやすみジブリ・夏夜のピアノ・メドレー」の音楽を 聴いていた。「さよならの夏」「流れる雲、輝く丘」などの曲を1時間ほど。 現在の自室の温度は24.5度。昨夜の同時間では27.5度で少し凌ぎやすくなったが、 今日はさらに涼しい。夜中の最低気温は20度を下回る天気予報なので、夏の薄掛布団を 1枚から2枚にして寝る予定。 ようやく季節は「夏にさよなら」する候になってきた。 明晩からは、これもYouTubeの「秋の夜にゆったり寛ぐジャズ・サックス」のメロデイーに 替えよう。 ともかく、今日の日(10月1日)を迎えられてホッとした。 ちょっとした安堵感に包まれている。 こんな気持になった誕生日は、今までになかった。 20歳(成人)になった時も、60歳(還暦)になった時も、70歳(古希)になった時 も、「あっそうか」という程度で、特に何も感じなかった。 1年経てば年令は1歳増す。誕生日は、今までの年令に1を加えた年令を、新たに脳にイ ンプットする日だった。 それが、今日の10月1日は違った。「良かった。78歳になった!」と。 私の父は1987年(昭和62年)10月2日に死没した。 享年77歳だった。 私が40歳(不惑)の誕生日を迎えた翌日に亡くなった。 この話は、過去のエッセイでも何回か述べたので、詳細は省くが。 この年(昭和62年)の3月下旬に、某巨大宗教団体の下部組織の一つにあたる我がA宗 教法人(父が代表役員)と、Aを包括する組織的上部にあたるB大教会との係争が始まっ た。 係争とは東京地方裁判所に対し「真正なる登記名義の回復を図るため、昭和27年に登記 したA法人の土地の名義を、当時のB大教会会長(係争時は既に死亡。登記時、一時的措 置として名義をB会長名にしておくようBからの強い指示があった)の個人名義から、A 法人の名義に、所有権の移転登記手続きをするように」との請求を、Aの代表者・父を原 告とし、原告訴訟代理人の弁護士が訴状を提出した民事訴訟のこと。 父は訴状を提出する数年前から血液難病に罹り、自宅療養をしていた。訴状が提出されて からは、B側は宗教組織上の「親」=上司の立場を強調し、父と我々家族に対し色々と無 理難題を言ってきた。その度に父は身を挺して先方の指示した会館に出かけたり、事の真 相を書き留めたり、信者さんや親族に説明していた。 しかし、約半年後に亡くなった。 その後、様々な苦労が残された私共に降りかかってきたが、そうした危機的状況の中、教 団内の有力な理論家である有名大学の教授や、信者であり偉大な実業家でもある人などが 積極的に支援・協力をして下さった。結果、1989年(平成元年)10月に、ようやく 双方の和解が成立したのだった(双方の覚書交換や税務申告、信者・関係者への説明など の残務処理が終わったのは翌年の2月) この決着は、まさに奇跡だった。 国税庁の人は「宗教団体を相手にした訴訟で、この様な成功事例は聞いたことがない」と 驚いていた。 翌年の春、私の家の引っ越しが済んだ時、移転先の中古住宅(現在の自宅)の何もない1 階の部屋に一人佇むと、不意に、父が生前に言い聞かせてくれた教理の一節「人がなにご と言おうとも、神が見ている気をしずめ」という言葉が脳裏に浮かんだ。そして係争の結 末を知らず、無念のうちに亡くなった父の笑顔を想い出すと、思わず涙がこぼれた。 ちなみに、和解から10年後のある日。関西にあるBの大神殿が火災で全焼したニュース が、夕方の自宅のテレビに流れた。 私はそれを見て、しばし茫然と立ちすくみ、神の配剤に畏怖した。 10月1日で、私は78歳になった。 父の享年77歳を無事に超えられ、心底ホッとした。 10月2日は、父の祥月命日。 私は神を信じるが、どこの宗派・教団にも属さない。 自宅のテレビの横の棚に、小さな「フクロウの絵皿」と、酒を注いだ酒盃と、一輪挿しの 花を置き、これを我が家の神棚としている。 そして毎晩、神棚に向かって合掌し、神と御先祖と今までお世話になった物故者の方々に、 感謝と祈りを捧げているのである。 10月2日の晩は、神棚に日本酒と大福と菊の花を供え、父と母の御霊に手を合わそう。 そしてこう語るのだ。 「ありがとう」 それでは良い週末を。 |