東井朝仁 随想録
「良い週末を」

早稲田通りを歩いて(3)
(前回の続きです)
穴八幡宮の境内を出たら、目の前が「旧文学部キャンパス」。
かっては、私が通学していた第二文学部(二文)と第一文学部の校舎がありました。
現在は、かっての大隈講堂前の「本部キャンパス」を早稲田キャンパスと呼ぶように、
ここは戸山キャンパスが通称になっていました。
なぜなら2007年(平成19年)4月から、第一文学部と第二文学部が統合され、新たに
人文科学系の「文学部」と「文化構想学部」に改編されたからです。
文学部は「哲学、心理学、教育学、社会学、日本文学、中国文学、英文学、フランス文学、
美術史、演劇映像、日本史、西洋史等のコース」が専攻コース。
一方、文化構想学部は「多元文化論系、複合文化論系、表象・メデイア論系、文芸・ジャー
ナリズム論系、現代人間論系、社会構築論系が専攻コース。
文学部も文化構想学部も、外国語科目と講義科目を「ブリッジ科目」として共有し、お互い
に受講できることが目玉(演習は別)。
私には文化構想学部の系統が良くわかりませんが、両学部併せて約1000科目が設置され
ているというから、自分のニーズに合った科目を選択して履修することでは、ダイナミック
な改編になったようです。

以前に、早稲田大学の改革・改編の目的について本部の入学センターの人と話をした内容か
ら、それは一言でいえば「各国家試験・資格試験に合格できる人材」「社会に出てグローバ
ルに活躍できる人材」の育成に尽きるようです。
「そのために早大で唯一の夜間部である二文を廃止したのですか?たくましい知性としなや
かな感性を持った、在野精神のある学生を輩出するのが早稲田魂と思っていたが。二文は早
稲田でも唯一の夜間部として、まさに「ワセダ的」な特色ある学部だったと思うんですがね。
要するに、将来、政治家や優秀な文化人になれる人材、あるいは官庁や大企業に就職できる
人材を養成するという事ですね?
高等専門学校や予備校を、さらに総合的に強化した大学という感じかな」
「グローバルに対応できるスペシャリストの育成ですね」
「そのための一環として、外国人留学生をどんどん受け入れているの?」
「そうですね。海外留学も盛んになっています。また、近年は昼に働いて夜に通学するとい
う学生は殆どいなくなりました。それで二文を改編したんですよ。廃止を惜しむ教授も多か
ったですがね」
「なるほど。私が在籍中もクラスの半分以上は働いていなかったな。働くと言ってもアルバ
イトでしたね。そういう意味で役割を終えたのかな。大学運営上も大変ですしね」

そんな会話を思い出しながら、私はキャンパスの正門を入り、50年前の卒業式の後、一人
で下っていったスロープをゆっくり上って行った。
2018年7月26日「緑陰の人(上)」を参照)
卒業してから丁度50年。半世紀の歳月が流れている。どこの大学も盛んに改革を進めてい
る。
早稲田も大きく変貌して、おかしくはない。
しかし、昔からの大学の理念は、今でも一貫して継承されているのだろうか。
「在野精神のワセダ」などと表現したら、今の学生たちは100%首をかしげるだろう。

火曜日の午後のキャンパスは、ほとんど学生の姿が無かった。
スロープをゆっくり上りながら、周囲を見渡した。
「かっての文学部キャンパスは大きく変わった」と聞いていたが、確かに変容していた。
敷地を全面的に使って、幾つもの建物がひしめいていた。昔は、2階、3階建ての規模の小
さな建物が3棟ぐらいで、それを一文、二文で共有し、スロープの下には広々としたキャン
パスが広がり、記念会堂(体育館)が建っていた。そこで、学生自治会主催の「森進一ショ
ー」が開催され、彼はデビュー曲で大ヒットした「女のためいき」という歌謡曲を歌ったが、
歌ってすぐにマイクが故障し、結局、ハンドスピーカーを片手に絶唱したが全く声が通らな
く、苦渋の表情で歌う彼を観ていて、笑いをかみしめるのに苦労した。そんなことを思い出
した。
今は、記念会堂は37号館(早稲田キャンパスと戸山キャンパスで39号館まである)とし
て立派に建替えられ、入学・卒業式やイベント会場、体育の授業に使用されており、キャン
パスは人工の丘や植え込みに変わり、両方を称して「早稲田アリーナ」と呼ばれているよう
だった。
スロープを上り切ると、あとは今風のどこの大学でも見かけるコンクリートの無機質な建物
が、狭い敷地に空に向かって伸びていた。
新たな生協店や戸山カフェテリアやミルクホールなどが出来ていたが、どこでも学生達は静
かだった。
昔の生協や、キャンパス中庭や食堂での賑わいは、微塵もなかった。
スロープ沿いに数枚の立て看板が掲げてあった。教授の退任記念講演のお知らせや、ツアー
旅行の募集などが整然と立てられ、「アメリカのイラン攻撃反対」と楷書で書かれた一枚が、
唯一政治色(学生運動色)のある看板だった。
立て看板の大きさは、みな同じサイズ。もしかしたら学部事務局の承認を得て、貸与された
看板のみを使っているのだろうか。
どこもここも全てがきちんと管理されている雰囲気で、今の学生達は私たちの世代とは思想
も価値観も行動様式も、全く異質になっている感じがした。
人も、建物も、情景も、雰囲気も大きく変わった。
それは当然のことだろう。
しかし、50年の歳月を経ても、全く変わっていないものがあった。
それは、キャンパス正門から校舎中庭までの、この長いスロープだった。

思えば、私が二文に進学したのは運命だった。あとでそう痛感した。
以前にも述べたが、私は奈良県にある天理高校に昭和38年に入学した。新入生の数はおよ
そ800名。
まさに団塊の世代の第一波。私は2クラスしかない進学組に組み入れられていたが、入学し
てすぐに、前年に全国大会で優勝していたラグビー部に入部。だが、しごきに近い激しい練
習の日々を余儀なくされ、初心者のやせ細った生徒には、暗黒の日々になった。勉強や級友
との付き合いなど出来る状態ではなかった。何度も退部しようと考えた。しかし、申し出た
際のリンチが恐かった。
新入部員は誰もがそうささやきあっていた。
同じ新入部員の二人も同様なことを呟き、「寮(寄宿舎)を夜逃げして、あとで学校に退学
願いを出そう」と持ち掛けられた。
しかし、私は今更東京の家に戻ることは出来ない。苦悩の日々が続いた。だが、救いの手は
突然に伸びてくるもので、二学期の初めに「部活をしている進学組の生徒は、すみやかに退
部して勉強に専念すること」という校長のお達しが出た。
私は九死に一生を得た気持半分と、他の部員に申し訳ないような敵前逃亡をするような気持
半分とを抱いて退部した。

それ以降、放課後は全くの帰宅部員となり、挫折感と孤独感をどこかに感じながら、親しい
友達もなく、無為な毎日を送っていた。勉強など全くやる気がなく、進学組でも成績は最悪
だった。
寄宿舎に帰っても面白くない無気力な日々が続き、いよいよ退学して東京に戻ろうかと悩ん
だが、やはり東京には戻れないと、諦めた。
そのような状態で2学年の春を迎えた。2学年全体のクラス再編が行われていた。私は、毎
日の時間つぶしに、放課後は大学の図書館の閲覧室に通うこととした。
そして、ただ一人で授業の復習と予習を飽きもせずに行い、閉館のチャイムを聞いてから退
館する毎日を送っていた。
すると、そうしたことが思わぬ現実をもたらすようになった。全く予期していなかったが、
一学期の試験で文系(確か理系組の2クラス以外の組)10数クラスの中で一番になったの
だ。
教職員室の前に貼られた20番までの順位表。そののトップに私の名前が書かれていた。
すると、それまでは野球や柔道やラグビーや吹奏楽部など、全国屈指の部で活躍していた者
やクラスの人気者達とはとはほど遠い私の存在だったが、それが急変した。
「東井!」「東井!」と言い寄ってくる者が増えたのだ。そしてその秋、級友らの後押しで
生徒会の副会長にクラス推薦で立候補し、当選した。
それからの日々はクラス内外に友人が増え、生徒会活動や級友たちとの交流をアクティブに
行った。
寄宿舎の私の部屋ですき焼きパーテイ(ビールを飲みながら)をしたり、他の寮や寄宿舎に
行ったり、夜中に友人と連れ立って神殿の長い回廊の拭き掃除(正味1時間)に行ったりの
毎日になった。
そして勉強は授業中と中間・期末試験前以外は全くしなくなった。
大学受験であくせくする者も周囲にはほとんどおらず、私自身も、大学受験など考えなかっ
たから、余計に勉強への情熱は冷めていた。

そうした背景には、家の事情もあった。
家が天理教の分教会という組織末端の小さな教会だったので、一般のサラリーマン家庭の様
な収入は無かった。収入は実質20人〜30人ぐらいの信者さんのお供え(寄進)だけだっ
た。したがって私も中学2年の時に朝の新聞配達を行ったり、母親は私が小学生の頃にアイ
スクリームのカップ組み立てや花飾り作成の内職を、夜なべにしていた。そんな家庭の事情
から、高校進学も父の勧めで「授業料免除。そのかわり、将来、収入の途が開かれた成人に
なったら、学費相当額を本部にお供えすること」という特別制度を適用してもらい、奈良の
天理高校に進んだ。
兄も妹も天理高校に行った(妹は夜間定時制に通い、昼は炊事センターで働いていた)。
だが、「大学に行くなら自宅から通える国公立大学。それが嫌なら駄目だ」と両親から言わ
れていたので、我が高校の水準からしたら、2年の後半かせめて3年から勉強に集中しなか
ったら現役合格は無理だ、と諦めていた。
兄も妹も大学には行かず、卒業するとすぐに働いて家計を手助けしていた。
自宅と神殿を併用した家は立派だったし、住んでいる地域は今でいう高級住宅街だったが、
我が家の内実は大変で、生活はぎりぎりだった。小学校の時はたびたび給食費が払えず、母
親に「先生に、もう2、3か月待ってください、必ず払いますからと頼むんだよ」と言われ、
その度に休憩時間に職員室へ行き、担任の女先生に蚊の鳴くような声でお願いしていた。
クラスでは学級委員をして勉強も運動も得意だっただけに、そんな自分がみじめで恥ずかし
かった。
でも先生は、いつも優しく笑いながら頷いてくれた。4年から6年までの3年間の担当だっ
たが、本当に慈愛の深い先生だった。また同様に、夫と子供(私の兄弟)6人の面倒を見な
がら、明るく元気に家計をやりくりして育ててくれた母親も、立派な人だった。今、つくづ
くそう思う。
そんな父母の心情や、毎月精一杯の心で教会にお供えをする信者さん達の事を考えると、自
分だけぬくぬくと大学に行くことは、心情的に許されなかった。
現実に、兄弟6人の中で大学に進学したのは私と15歳下の末弟だけで、他はみな高校を出
て働いた。

私は「全ての活動を辞め、受験勉強に集中して残りの高校生活を費やすか。あるいは人生で
二度とない、この貴重な高校生活を優先するか」と考えたが、自分の気持は後者になってい
た。
そして心中ひそかに「一浪して家で勉強すればいい。金は使わない。予備校にも通わない。
時々家庭教師のアルバイトをすればいい。そう親に頼もう」と漠然と決めていた。
しかし、すぐに親の答えが返ってきた。「それは駄目だ」と。

3学年の新学期が始まった。
冒頭の全校始業式で、前年度の学年成績優秀者の名が呼ばれ、校長からオルゴール時計を授
与された。
私も貰った。しかし「2年の三学期は成績が悪かったのに、なんで俺が?・・」と不思議だ
った。
1、2学期の貯金が生きて、総得点でかろうじて一番になったのだと思った。
三学期は全く勉強をせず、生徒会活動や仲間たちとの交遊を楽しんで過ごしていた。
そうした状態は3年になっても続いた。
生徒会副会長を退任すると、今度は「地歴部」(地理・歴史・考古学)の部長になってくれ
と、社会科の教諭から懇願され、これを受諾。部長就任時に数名だった部員は一気に30名
ほどになり、その進展ぶりが学校新聞(注・新聞部作製。全国高校新聞コンクールでも入選
の実績)に掲載されたりした。
奈良県内の神社・仏閣、古墳、日本最古の道「山野辺の道」などの探索、そしてテーマを決
めての調査研究の活動を行い、頻繁に部内討議を行ったりしていた。
さらに校則でアルバイトは禁じられていたが、小学3年生の家庭教師を毎週日曜日に行った
り、秋の体育祭の実行委員長や文化祭での地歴部の展示準備、校内弁論大会出場(優勝を確
信していたが準優勝)などの校内活動を活発に行っていた。
そして、異性との交際。これも校則で禁止されていたが、級友の女生徒に紹介された。彼女
と同じ寮生の1年生の女生徒だった。「お兄さんになって下さい。私の親友もやっています
が、交換日記をしていただけますか」と、大学の図書館近くの、紅葉した大きな樹の下で
お願いされた。
神殿前の朝礼の時に、階段の最上段で号令をかけていた時、1年生の女生徒の幾つもの列の
中で、遠目からも目立って見えた、しっかりした可愛い子だった。
3年の晩秋の頃だった。
それから2〜3日おきに各自の日記帳を、図書館やグランドの片隅や神殿の庭などで、ある
いは私の寄宿舎で交換し、少しの時間お喋りをしてから別れていた。
それより何よりも、連日、仲間たちとお好み焼き屋やうどん屋や寄宿舎の部屋での歓談が習
慣になっていた。卒業までの日々、時間が足りないほどに青春を謳歌していた。
通常の期末試験は各科目とも一夜漬け。ましてや大学受験勉強などはやらなかった。

3年の夏休み明けに、全国一斉模擬試験だったか全国学力テスト(?)だったかが行われた。
それがどういう意味合いの試験かも知らなかったし、知ろうともしなかった。
二学期も半ばを過ぎた頃、クラス担任の先生が各自にその試験の成績表(偏差値)を手渡し
した。
配り終わると、斜め前の席のE君に「東井は幾つだった?」と聞かれた。再度、学生服のポ
ケットから表を出して「62だよ」と言うと、彼は「勝った、勝った。東井に勝った!」と
喜んで「63」と書かれた表を私の眼前に差し出した。
しかし、彼に勝った負けたと言われても、その数値が何を意味するのか、何点ぐらいだと良
いのか分からなかった。彼が何で63ぐらいで喜ぶのかもわからなかった。
偏差値というものは初めて聞いたが、先生も詳しいことは説明しなかった。
私は100点満点の62点は、優・良・可の「可」だと捉えていた。その程度の理解度だっ
た。
E君は普段からクラスでも目立たない、何をしているのかわからない生徒だった。しかしそ
の時に、初めて彼の生き生きとした笑顔を見て、私もつられて笑った。
翌年の春、彼は青山学院大学に入学したと聞いた。

二学期もそろそろ終わろとしていたある日。
親類の叔父さんが私の寄宿舎にたまたま寄ってくれたので、食堂で番茶を飲みながら話をし
た。
「朝(トモ)、大学はどうするんだ。行かないのか?」
「卒業したら東京に帰って、一浪して受験するつもりですが。でも両親が反対なんです。今
の偏差値だったら、東京の国公立は到底無理ですから。どうしたものかと・・・」
すると叔父さんは、少し考えてから「浪人か・・・。浪人しなくても、いい方法がある。大
学の夜間部に行くんだ。天高でも、夜間に行って一流の企業で偉くなっている者がたくさん
いるぞ。
働きながら大学に通い、一生懸命勉強して、それから希望する昼の大学を受けてもいいんじ
ゃないか」
私はハッとして、「おじさん、例えばどんな大学?夜間なんてあるの?」と身を乗り出して
尋ねると、
「早稲田や明治や中央、都内には結構あるよ。調べてごらん」
「そうか。そういう選択肢もあったんだ・・・」と答えた瞬間、吉永小百合が早大に通学し
ているというニュースを思い出した。
「そうだ、早稲田の文学部の夜間を受験しよう!昼はどこかに勤めよう。それなら親は許し
てくれるだろう。信者さんたちの手前、それなら顔向けも出来るだろう」と決めた。

この時、年に一度ほどしか会わない叔父さんが偶然訪ねてくれたこと、話の中で貴重な示唆
を与えてくれたことが、私の心に新たな火をともしてくれたのです。
それは、試験まで日の浅い、昭和40年の11月のことでした。

続きは次回にでも。
それでは良い週末を。