東井朝仁 随想録
「良い週末を」

コロナ禍の日常での雑感(5)

(前回の続きです)

●高峰秀子さん(1924年~2010年・86歳没)
彼女は、日本映画史上における最高の大女優・名女優。
そう言っても過言ではない。多くの映画評論家や映画ファンも同様だろう。
断っておくが、私は女優・高峰秀子の熱心なファンではないし、彼女の映画をくまなく観
てきた者でもない。だが、私が小さい頃から一端の社会人に成長するまでの間、彼女の幾
つかの映画に深い感銘を受けてきたのは事実だ。そして次第に彼女の人となりを知るにつ
け、改めて深い敬意を抱いている自分に気付く。
私は人間・高峰秀子さんをリスペクトしているのだ。

高峰さんは、1929年(昭和4年)、5歳の時に子役で映画デビューし、以降1979
年(昭和54年)に55歳で引退するまでの50年間で、出演した映画は300本以上。
そして多くの名作・話題作を生み、数々の賞を受賞された。
例えば、私が子供の頃に学校の課外授業の一環として観た、灯台守(灯台の番人)夫婦の
駐在生活を描いたヒューマン・ドラマ「喜びも悲しみも幾年月」(1957年製作)。
日本の北から南まで点在する灯台は、現在3千か所以上にのぼる。
映画は、北海道納沙布岬から長崎の五島列島(女島)までの15の灯台を転々と移動し、
様々な困難に直面しながらも夫婦(高峰秀子と佐田啓二)が力を合わせ、厳しい日々を乗
り越えていく物語。つましくとも家庭の幸せを第一に、悔いなく精一杯生きた灯台守の
25年間。
私は子供心に胸が打たれた。
高峰さんと佐田さんが、とても誠実で清らかな俳優に映った。
この映画で、私は初めて女優・高峰秀子を知った。

そういえば。
私が中学生の頃、日々の暮らしに精一杯で、映画やお芝居や歌謡曲などにまるで縁がない
と思っていた母に「お母ちゃんは、女優では誰が好きなの?」と聞いた時、黙々と縫物を
していた母は、サラリと「高峰秀子・・」と答えていたことを、今になって思い出した。
私が物心ついてから、母が映画を観に行ったことなど一度もなかったはず。そんな余裕は
我が家には無かった。勿論、テレビなどは私が20歳になるまで家にはなかった。
なのに、なんで母は「高峰秀子」と言えたのだろうか?
映画は見たことがなかったが、どこかの雑誌に載っていた高峰さんの顔立ちからだけで、
そう判断したのだろうか。
母は1920年(大正9年)生まれ。高峰さんより4歳年上。
お互いに道産子。
終戦の年に、高峰さんは21歳。母は25歳。
すると戦前にでも、母は高峰さんの映画をどこかで観たのだろうか。
いずれにしろ、母が「高峰秀子」と答えたのは、何となく母らしいと思えてくる。

私が高峰さんの映画で好きだったのは、のどかな小豆島の分教場(小学校の分校)の新人教
師・大石久子の役で出演した「二十四の瞳」(1954年製作)だった。
この映画は私が成人してから観たものだったので、「喜びも・・・」よりはるかに感銘の
度合いが深かった。
大石先生は「おなご先生」「泣きみそ先生」と、担当する12名の1年生の生徒たちから
慕われ、みんなと一緒に、土手の道を学校唱歌を歌いながら歩き、みんなと一緒に考え悩
みながら教員生活を送っていた。
しかし当時、日本中を吹き始めた軍国主義の嵐は、瀬戸内海の小豆島まで伝わってきた。
全政党が解散して結成された大政翼賛会は「国家総動員法」を制定し、軍部やジャーナリ
ズムは「大東亜新秩序」をスローガンに掲げ、日本は開戦準備を加速していた。国の主導
のもと、全国各地で「皇紀2600年の祝賀行事」が開催され、「ああ、一億の胸は鳴る」
の歌声と共に、日本中が国をあげてのお祭り気分に浸っていた。何も知らない子供たちで
さえ、日中戦争以降に流行していた日本軍賛歌・戦意高揚の歌を歌い、兵隊さんの真似を
して遊んだりしていた。全国の学校では国の指導方針にのっとった軍国教育がなされてい
た。
しかし、大石先生は「戦争は絶対してはいけないことなのよ。国のために死ぬなどと、考
えてはいけません」と、子供たちに静かに諭す「反戦・平和主義の先生」だった。
そして日本の戦争態勢が進むと共に、社会は不況に見舞われ、貧しくて学校をやめて働き
に出された子や、通学がとどこおる生徒が出てきた。
大石先生は、そうした生徒たちの家庭を訪問したり、不安で悩んでいる一人一人の事情に
心を砕き、二十四の瞳(12名の児童)を優しく見つめ続け励まし続けた。誰に対しても分
け隔てない愛情を注ぐ「情の深い公平な先生」だった。
だが大石先生に対する周囲の目は厳しくなってきた。
大石先生は悩んだ末「軍国教育は出来ない」と退職した。

時は流れ、夫を戦争で失った大石先生は、再び島の分教場の教師に復職した。
かっての教え子たちが同窓会を開き、大石先生を招待した。
悲惨な戦禍に耐えながら立派に成長した教え子たち。
でも、男子生徒の大半が、戦争で命を失っていた。
懐かしい一人一人の顔を見つめながら、名前を思い出して語りかけるたびに、涙がこぼれ
た。
女性ばかりと思っていた席に、一人静かに正座をしている坊主頭の青年がいた。彼は戦争
で失明していた。
大石先生は、その青年の名前を言い当て、「立派になられて・・・」と青年の杯にそっと
酒を注いであげながら、何度目かの涙を流した・・・。

この映画は、「キネマ旬報ベストテン」の第一位、ブルーリボン賞作品賞、ゴールデング
ローブ賞・外国映画賞など、多数の賞を受賞した。
「二十四の瞳」の話が長くなったが、高峰さんは他にも「浮雲」「名もなく貧しく美しく」
「無法松の一生」(共演・三船敏郎)など、多数の素晴らしい作品に主演されている。
私はどれも観たが、どれも素晴らしかった。
ちなみに、高峰さんが亡くなってから4年後、女優を引退してから35年後の2014年
(平成26年)に、「キネマ旬報」が実施した「オールタイム、ベスト日本女優」で、高
峰秀子さんは第一位に選ばれた(男優は三船敏郎)。

一方、私が今更ながら驚くのは、映画『銀座カンカン娘』(1949年製作)に出演すると
共に、高峰さんが同名の主題歌を歌ってヒットさせた、その多才さだ。
これは終戦の4年後、私が生まれて2年後の映画だ。
以前のこのエッセイ欄で「私が生まれて初めて聞いた歌、断片的にラジオから流れる歌に
合わせて歌った歌は、美空ひばりの『あの丘こえて』だ」と述べたが、本格的にしっかり
歌えたのは、この『銀座カンカン娘』だった。
私が6歳頃だったような気がする。
なぜなら当時、父に連れられて都電に乗って銀座界隈に行ったことがあった。通りを歩い
ていると、どこからか流れてきたのが、この歌だった。
『♪カルピス飲んでカンカン娘・・』というリズミカルで陽気な歌が流れていたのだが、
「お父ちゃん、カルピスって何?」と尋ねたが、「飲み物だよ」と言うだけで、全く見当
がつかなかった。
それが具体的にイメージされたのは、ある日の朝日新聞(注・父の娯楽は新聞を読むこと
で、それも朝日だった)の夕刊1面を何気なく見たとき。
モーニングを着て山高帽子をかぶった黒人が、ストローをくわえてコップの飲み物を飲ん
でいるイラストが掲載されていた。それは「初恋の味、カルピス」のコピーが添えられた
広告だった。(当時は、歯磨きのスモカやミツワ石鹸などと同様、新聞ではカルピスの広
告も多かった気がする)。
その斬新なイラストと初恋の味の名コピーの広告は、長い間、庶民にインパクトを与えて
いた気がする。
同時に、ラジオからは「カンカン娘」の歌がしばしば流れていたので、この歌はほどなく
してカルピスの味と共に、幼い頃の私の身体に、自然と溶け込んでいった。
「なるほど・・・。カルピスってこういうものか!」と感心し、原っぱで近所の友達と
「カルピス飲んでカンカン娘~!!」と声を張り上げながら、竹のバットとゴムボールで
草野球に興じていた。
実は「♪カルピス・・」は、最後の4番目の歌詞。
この歌の出だし1番の歌詞は「♪あの娘(こ)可愛や カンカン娘 
赤いブラウス サンダルはいて 誰を待つやら 銀座の街角・・・これが
銀座のカンカン娘」である。

昭和24年当時は、まだまだ新橋駅前の復員兵や浮浪者の群れや、ガード下のパンパン
(売春婦)などがたむろしていたという。だから歌謡曲でも「♪星の流れに身を占って何
処をねぐらの 今日の宿…泣けて涙も 涸れ果てた こんな女に誰がした」という『星の
流れに』の歌謡曲のほうが、先行して流行していた。この歌の発売は1947年(昭和
22年)10月。
私が生まれた年・月だったが、当時はこの歌詞と哀愁に満ちたメロデイのように、暗く退
廃的な世相だったのだろう。
しかし、このパンパン・ガールをカンカンに怒って、もっとモダンで前向きな歌をとのコ
ンセプトで「カンカン娘」が生まれた、と言われている。確かに無理をしている感もある
が、明るく快活な歌だ。
それを歌い、演じたのが高峰秀子だったと知ったのは、恥ずかしながら最近のことだ(私
は、終戦後の大ヒット曲『東京ブギウギ』を歌った笠置シズ子の歌とばかり思っていた)

歌を歌ったり、50年間映画に出まくっていた高峰さんは、55歳になる1979年(昭
和54年)に、話題作「衝動殺人 息子よ」に出演後、女優をキッパリと引退された。
「私は生涯現役」とばかりに、いつまでもその世界にかじりついている人が少なくない。
それはプロ・スポーツでも芸能の世界でも、あるいはサラリーマンの世界でも。
その点、高峰さんは潔かった。引き際がきれいだった。
名声や立場や金銭欲・物欲などに固執する人ではなかった。
そのことは、引退後の人生で書かれた多くの書籍を読むと、よくわかる。

引退後の彼女の活動の舞台は文芸(エッセイ)に変わったが、その活躍ぶりは女優時代同
様に、私には驚異的に感じられた。
日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した彼女のエッセイ集「私の渡世日記・上下巻」(新
潮文庫・文春文庫)をはじめ、多くの本が出版され、それぞれ好評を博してきた。
「台所のオーケストラ」「にんげんのおへそ」「おいしい人間」「にんげん住所録」「に
んげん蚤の市」「いっぴきの虫」「私の梅原龍三郎」(以上・文春文庫)などがある。
題名から推察される通り、高峰さんのエッセイには、映画・演劇・歌・文壇・美術・評論
・写真など、各界の重鎮や大御所とのよもやま話や、自宅近くの魚屋や骨董屋さんなどの
市井の人達との何気ない話など、様々な「人間観察」から生まれるユニークでユーモラス
な話で満ちている。
本人も「あとがき」で、「性格およそぶっきら棒、人づきあいは大の苦手で、『お前さん
は変人です』と夫にも言われる私なのに、筆を持てばやはり『人間に関することしか書け
ない』とは、と、自分でもこっけいになる」と書いている。
だが、どのエッセイも目線がやさしく、それでいて映画の中の主人公のイメージと全く異
なって、忌憚のないドライで歯切れよい物言いをされていることに、私は感心した(後で
述べる岸恵子さんは、さらに発言が鋭いので仰天したが)。
まさに、どのページもすらすらと読まされてしまう「秀子(デコ)節」のオンパレード。
なるほどこれがエッセイの妙味なのか、と感心した。

それでは、多くのエッセイ集の中の一冊「おいしい人間」から、どちらかというと、彼女
のエッセイの中でも、自然と湧き出たような本音が綴られた一編「お姑(かあ)さん」を
紹介します。

                《お姑(かあ)さん》

演出家、木下恵介監督の助手をしていた松山善三と私が結婚したのは、昭和三十年の春だ
った。「結婚」という生涯の一大事業を目前にしているというのに、花嫁である私の気持
ちはいっこうに盛り上がらず、我ながら全く「可愛げのない女」だった。
当時の私は、既に三十歳の分別くさいオバンだったから、というせいもあっただろうが、
最大の原因は、私が心身ともに「疲労困憊」してボロ雑巾のようになっていたからだと思
う。
日本映画界はなやかなりし頃の私は、大のつくスターで、年中、ゴールのない馬場を走り
続ける競馬ウマのように撮影の仕事に追われ、家に戻れば戻るで日毎に歯車の食い違って
くる養母との葛藤に疲れ果てていた。
その上、私の収入を当てにする親戚縁者にオンブお化けのようにとりつかれ、とちらを向
いても金、金、金をむしり取られることばかり。
私は次第に人間不信になって、親兄弟と聞いただけでもハダシで逃げ出したくなるような
人間になっていた。
寒々とした人間関係の中で孤立していた私が、ふっと結婚をする気になったのは、もちろ
ん、当時29歳だった松山青年の人柄の良さにひかれたこともあるけれど、それ以上に私
の心をとらえたのは、松山のお母さんのたったの一言だった。

はじめて松山の両親に対面することになった私の心は、ますます重く沈み込んだ。5歳の
ころから、やくざな映画撮影所の中で成長した私は、いわゆる「おしろうとさん」と接し
たことが全くなかったからである。
私の養母は私の結婚にははじめからソッポを向いていたし、養母もまた、まともな挨拶ひ
とつできるような人でもなかった。
どうしたものだろう・・・と頭を抱えているうちに、とうとうその日が来てしまい、私は
ほとんど、やぶれかぶれといった心境で、横浜・磯子の松山家を訪ねた。

松山善三の父、三朗は、戦前は生糸の貿易業、戦時中は航空機の部分品の製造業をしてい
たということ。6人の子供のうち、長男はニューギニアで戦死、善三は次男であること。
私はその程度の事情しか知らなかったのだから、考えてみればずいぶんと乱暴な結婚だっ
た。
磯子の松山家は、小さな庭のあるごく普通の家で、両親も見るからに普通の人だった。な
にかにつけてあまり普通でない「活動屋人間」には一番苦手な相手である。
松山善三とそっくりなお父さんの後ろで微笑んでいたお母さんが、はじめて口を開いた。
長く患っているリュウマチのために両手の指が曲がり、脚も不自由なので座ることができ
ず、木製の脇息にチョコンと腰を乗せていた。脇息が格好の椅子にみえるほど小柄な女性
(ひと)だった。
「折角、結婚なさるというのに、うちが貧乏なのでなにもしてあげられません。あなたに
働いてもらうなんて、ほんとうにすみません。ごめんなさいね」
そう言ってお母さんは頭を下げた。

私は一瞬ポカンとした。お母さんの言葉をどう理解してよいかわからなかったからである。
というより、その言葉をすんなりと受けつけられぬほど私の心がねじ曲がり、荒れ果てて
いたということだろう。
私の頭の中で、「働いてもらうなんて」という一言だけがぐるぐると廻った、そしてやが
て、清冽な谷川の水がうずまくようにしぶきをきらめかせて、廻り続けた。
長い女優生活の間、私は養母から、ただの一度も「仕事が辛いか?」
「仕事をやめたいか?」などと聞かれたことがなかった。養母にしてみれば、収入(みい
り)のいい女優が働くのは当たり前なのであって、働いてもらっている、という自覚など、
おそらく無かったに違いない。「スターの母親」という立場を失うことをなによりも恐れ
ていた養母の口からは間違っても出ない言葉だったし、タブーでもあった。
昭和30年の松山の月給は1万3500円、私の映画の出演料は百万円だったから、共稼
ぎというニュアンスとはちょっと違って少々こっけいだったけれど、そんなことはどうで
もいいとして、松山のお母さんの言葉には、明治の女性(ひと)のプライドとか、世間体
とか、そういう感情の全てを乗り越えて、ただ純情に、息子の嫁への「慈愛」だけがこめ
られていた。

生まれてはじめて「優しい言葉」をかけられて、私の目に思わず涙がにじんだ。
映画の演技以外には他人前(ひとまえ)泣いたことも、自分の心を見せたこともなかった
私は、自分で自分の涙におどろくと同時に、松山善三との「結婚」を決意していた。いや、
善三とではなく「お姑(かあ)さん」松山みつと結婚したかったのかもしれない。
私は「お姑さん」の人柄を信じると共に、そのお姑さんに育てられた松山善三という男性
を信じた。そしてそれは私自身の将来を信じることでもあった。
何年ぶりかで「人を信じる」という感情が自分にかえってきたのが嬉しかった。

私は結婚と同時に仕事を半分にへらした。女優と女房は両立しない、ということは分かっ
ていたし、どちらかと言えば女優より松山の女房としての自分を大きく育ててゆきたい、
と思ったからだった。
結婚前は一家の女主人だった私の家に、もう一人男の主人が現れたから、結婚当初はかな
りギクシャクバタバタと忙しく、映画の仕事に入れば入るで忙しく、磯子のお姑さんを訪
ねる時間もなかったが、夫の背後にはいつも笑顔のお姑さんの面影があって、私の心は和
んだ。

結婚して二年目だった。私はお姑さんへのごぶさたのお詫びにと、円型のスツールをデパ
ートから送らせた。花柄のサテンで包まれたスツールにお姑さんは小さなおしりを乗せて
くれただろうか?それをたしかめる電話もしないうちに、お姑さんは突然亡くなってしま
った。
リュウマチの鎮痛剤によるショック死だった。
私に残されたお姑さんの思い出といえば、あの優しい一言の他にはなにもない。けれど、
私にとっては百万言の言葉にもまさる、貴重な言葉であった。
人は、その生いたち、環境によってそれぞれ感銘を受ける言葉もちがうだろう。姑に貰っ
た一言が、心底生きる支えとなった嫁の話など、ある人にとっては甘ったるくアホらしい
ことかもしれない。
それでも私はいまだにお姑さんの一言を、私の宝として大切に抱きしめている。

以上です。
実は、この高峰秀子さんのエッセイは、2年前の春、私がデイ・サービスセンターで朗読
をした、想い出の一編です(2019年4月4日「また春が来た」を参照ください)

続きは次回にでも。
それでは良い週末を。