アナウンサー(3)
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1953年(昭和28年)、我が国においてテレビ放送が開始された。 1953年2月にNHK総合東京、同年8月に民間放送の日本テレビ、そして1954年 2月にNHK総合大阪と名古屋、1955年にTBSテレビなどが順次開局し、ここにテ レビ放送が始まったのだ。 だが、当時のテレビの世帯普及率は10%程度。まだ大多数の家庭にはテレビは無く、テ レビは高嶺の花だった。したがって、多くの国民にとって「テレビを観る」ということは 稀な、非日常のことだった。 しかし、その3年後の1956年(昭和31年)の経済白書に「日本はもはや戦後ではな い」と書かれたように、日本社会は1955年(昭和30年)から「神武景気」が始まり、 その後「岩戸景気」「オリンピック景気」「いざなぎ景気」と呼ばれた好景気が、 1970年(昭和45年)頃まで続いた。 ちょうど、私が小学校に入学し、テレビ放送が本格的に開始された1954年(昭和29 年)頃に始まり、大学を卒業した1970年(昭和45年)頃までの約15年間が、まさ に戦後日本の「高度経済成長期」だった。 そして、日本の経済成長と国民の所得水準の向上に伴い、テレビも日本中の家庭に急速に 普及していった。 例えば。 一般庶民の生活をリアルに描いて笑いを生んだ、戦後の日本を代表する4コマ漫画『サザ エさん』から、サザエさんが同居する磯野家(注・実父の磯野波平、実母のフネ、弟のカ ツオ、妹のワカメ。それにサザエさん一家である夫のフグ田マスオ、息子のタラオ、フグ 田サザエが同居する、合計7名の世帯)がテレビを購入した、と推測される時期を調べて みた。 方法は「サザエさん」の全集(45巻)のうちから、私が小学5年生だった1958年 (昭和33年)分を収載してある第20巻以降に狙いを定め、各ページをめくって調べて みた。すると、昭和35年1月~昭和37年1月分を収録した第23巻に、初めて磯野家 の茶の間にテレビが置かれている4コマを発見。 本のだいぶ後半のページで、磯野家の一家が小さな(注・当時主流だった14インチのテ レビと思う)テレビの前に正座して、相撲中継を観ているシーンが出てきたのだ。 その1ぺーじ前には「サザエさんが茶の間の箪笥の上のラジオを聴きながら、リンゴの皮 をむいている」場面が描かれていたので、まだテレビは未購入の時。 この巻の最後部分の頁には「獅子舞」が出てくるから昭和37年1月の正月。 その前の部分の頁には「歳末大売出し」が出てくるので昭和36年12月。その前には 「七五三」があり、これは11月時点。その前に「大相撲中継」のテレビ放送を一家で観 ている頁があった。これは昭和33年(1958年)にスタートした6場所制での秋場所 (9月場所)の中継だろう。 すると、磯野家がテレビを購入したのは昭和36年(1961年)9月頃と推測される。 私が中学2年生の頃で(注・我が家には未だ無かった)、東京オリンピックの3年前だ。 この昭和30年代半ばは、我が国の多くの家庭がテレビを購入し始めた時代だった(注・ テレビの世帯普及率は、昭和33年・10%→昭和36年・63%) その磯野家がテレビを購入した年の2年前の、1959年(昭和34年)4月10日。 この日「皇太子殿下と正田美智子さんの御成婚パレード」のテレビ中継があり、日本国民 がテレビの画面に釘付けとなった、と当時は報道されていた。 だが、その時のテレビ世帯普及率は、まだ24%。だから「釘付け」と言っても、残りの 75%の世帯の人々は、どこかでテレビを観ていたか、ラジオの実況中継に釘付けになっ ていたのだろう。あるいはそんな暇も関心も無かった人もいただろう。 ネットで、当時の様子を調べてみると「沿道でパレードを見学した人が53万人、『街頭 テレビ』の前には1500万人もが集まった」と日経ビジネスの記事にあった。私はここ で、多くの人々が『街頭テレビ』を観ていたことに、今更ながら驚いた。 戦後の復興期を乗り越え、生活にゆとりが生まれ始めた多くの国民にとって、テレビは、 急速に身近なあこがれであり、娯楽になっていたのだ。 一方、この御成婚パレードの丁度1年前の1958年4月5日、六大学野球のヒーローだ った長嶋茂雄のデビュー戦がテレビで中継された。 結果、巨人の新人・長嶋選手が対戦相手の国鉄の大投手・金田投手から連続4三振を喫し たのだが、多くの国民の関心の的となり、プロ野球史に残る大一番となった。私もこのテ レビ中継を、小学5年生になったばかりの春休みに、家の近くの友達の家で観た。 この友達の家は、ある金融機関の一戸建の社宅だったが、いち早くテレビを購入しており、 私はさらにこの年の秋の「日本シリーズ」巨人対西鉄の試合(注・西鉄が鉄腕・稲尾投手 の連投により、3連敗の後に4連勝して奇跡の逆転優勝を果たした)も、何試合か観させ て貰っていた。 この辺りには、同じような一戸建ての社宅に住む級友も多く、みなホワイトカラーの世帯 で、テレビのある家が多かった。 だいたい、クラスの中でも「サラリーマン家庭」の子は、学校で長嶋や若ノ花の話などを するようになるのだが、テレビが無い家の子は、何のことかわからず「フーン・・」と聞 いているしかなかった。前述の野球中継以外は、私もその一人だったが。 我が国におけるテレビの普及は、国民の一般世帯の家計水準の向上と共に進んでいくのだ が、何よりも一番の要因は「テレビの魅力」が広く国民に伝わっていったことにある、と 私は考える。 現在でもそうだが、魅力のある商品は欲しくなる。当時でいえば、テレビを筆頭に電気冷 蔵庫・電気洗濯機の「三種の神器」だ。また、日本人特有の「世間体、横並び意識」もあ っただろう。「お隣りもテレビを買ったから、うちもそろそろ・・」と。 当時は、テレビから始まって冷蔵庫や洗濯機も購入し、早い時期に三種の神器を全て所有 出来ている家は、いわゆる生活水準の「中流階層」に見なされる風潮もあった。だから世 論調査では平成の頃までは常に「生活水準は中ぐらい」と回答する家が70~80%ほど になっていた。殆どの者が「自分の家は中流」という意識だった。 考えてみれば、良い時代だった。 1970年(昭和45年)にはテレビ世帯普及率は延べ116%(白黒・90%、カラー ・26%)と、ほぼ全世帯にテレビが行きわたった。 その牽引力となった一つが「街頭テレビ」 これが、テレビの魅力を大衆社会に一気に広めることとなった。 それは、日本テレビの「テレビジョン浸透戦略」の一環で生まれたものだ。 1952年(昭和27年)に読売新聞社社長・正力松太郎氏がテレビの「放送予備免許」 を取得。翌年にテレビ局「日本テレビ」を設立。 その趣意は「一日も早くテレビジョンを普及させて文化を向上させ、健全な民主国家を作 ること」 正力社長は「敗戦で傷ついたこの国で、テレビという新しい娯楽こそが、日本人の心の豊 かさを取り戻すものになる」と唱えた。その具体的方策の一つとしてテレビのPRと普及 を図るため、まずは東京を中心とした関東周辺の主要な駅前の街頭に、およそ220台の テレビ受像機を設置したのだ。 これを当時から「街頭テレビ」と呼んでいた。 東京では新橋駅前の街頭テレビが有名で、後年、日本テレビの小林与三次社長は「街頭テ レビの放送で、人気があったのがスポーツ放送、特にプロレスです。 力道山がアメリカのシャープ兄弟をやっつける。それが当時の日本人の感覚にぴったり合 っていた。それが街頭テレビに映されて、国民的な人気を沸騰させたのです」と語ってい る。 (参考文献・「テレビはプロレスから始まった」著者・福留崇広、イーストプレス発行) この街頭テレビによる初のプロレス中継とは、日本テレビが開局した年の翌年、昭和29 年(1954年)2月に、蔵前国技館で行われた『日本プロレス協会』の旗揚げ戦「力道 山・木村政彦(日本の柔道王)対シャープ兄弟(アメリカの強豪プロレスラー)」のタッ グ・マッチのこと。 日本テレビでは午後7時半、NHKテレビでは午後8時から中継され、日本中で力道山の 人気が爆発した。これを契機にテレビの魅力も国民の間に一気に浸透していったのだ。 特にこの一戦から始まった日本テレビの「日本プロレス中継」が毎週金曜日の夜に放映さ れることにより、テレビの実況中継で観るプロレスの人気が高まり、昭和30年代では視 聴率が毎週40%を超えるほどになった。 私も小学校の頃、近所の金持ちの豪邸に、ちょくちょく力道山のプロレス中継を観させて 貰いに行っていた。 そこで、悪役外国人プロレスラー(注・確かキングコング、ボボブラジル、オルテガとか。 ブラッシーもいたか?)と戦う力道山の試合を随分見たが、その日本テレビの実況アナウ ンサーが「日本のプロレス実況の草分け」と呼ばれた清水一郎氏だと、私が40歳の頃に 初めて知って大変に驚いた。 小学生の頃は、アナウンサーの名前と顔は覚えていなかった。 だが、清水アナのリング上の状況を的確・冷静に素早く伝える独特な声色(こわいろ)は、 脳裏に残っていた。 それが、初めてお会いして挨拶を交わして蘇った。 その後は奥様に用件がありしばしばご自宅に電話したが、取次ぎで電話口に出られた清水 氏の声調は「全国2000万人のプロレス・フアンのみなさん、こんにちは」とか「さあ、 ブルーのスパンコールに身を包んだフレッド・ブラッシーの入場です」とかの実況中継の ような「今この時を描写する」アドリブが効いた語りではないが、「はい清水です。お世 話になっております。お待ちください」と、NHKのニュース・アナのように端的に丁寧 に応答する声調は、耳に心地よかった。常に穏やかで折り目正しい方だと感心した。 ここで、前述した快書「テレビはプロレスから始まった」の中から、日テレ時代に清水氏 の後輩だった徳光和夫アナの言葉を紹介。 「常に私は清水さんに付いていました。そうなると師弟関係みたいになるんです。実況へ 臨むまでの日頃の姿勢。そしてどういうことをやっているかがわかるのです。清水アナは、 40センチ四方の紙に横や斜めの線を入れ、大きなピースの一つに馬場と書き、馬場選手 の経歴や最近の試合成績やエピソードなどを書き込む。そして別の箇所には対戦相手のも 作って1枚の資料とする。これ1枚を用意して実況中継に臨んでいいました。とってもい い資料作りで、私もこれを清水方式と呼んで活用していました」 「他の野球中継をやっているアナウンサーは、取材をもとに喋っているんですけど、清水 さんは目に映ったものを全て描写するんです。同時に世間一般の社会状況、情勢、あるい は今流行している新しいものを、プロレスの中にサラダのように盛り込んでくるわけです。 私は『あぁ・・こういう実況の仕方があるのか』と衝撃を受けました」 「清水さんは事前に言葉を用意していなかったんです。あの人は、日常的に英字新聞を読 んでいらっしゃって、世間一般にアンテナを張っていた。言い方は悪いですが、ただのス ポーツバカじゃないわけです。その言葉が実況のまさにその瞬間に咄嗟に出てくる。 私は、これが本当のアナウンスメントじゃないかと思いました」 「そして今、私が言えることは、事程左様にアナウンサーが一番勉強になるのがプロレス であるということです。プロレス(中継)をやっていたから、私は今のフリーランスに結 び付いたんだなと思います。 私がこういうことを言うと何ですが、フリーランスになって成功しているアナウンサーは 私を含めてプロレス出身者が多いんです。古館伊知郎、福澤朗、辻よしなり・・みんなプ ロレスで育ったアナウンサーばかりです。 清水さんの教えを受け、プロレスを実況したことが、後々ワイドショー、ニュース番組、 歌番組で司会、キャスターを担当させていただいた時に、物凄く役に立ちました」 清水アナは、日本テレビに入社して間もない1957年(昭和32年)10月に、後楽園 球場で行われた「力道山対ルーテーズの世界選手権試合」のセミファイナルの試合(注・ 元横綱の東富士と豊登対外人二人組のタッグ)で、初めてプロレスの実況アナとしてデビ ューした。その後、力道山最後の試合となったインターナショナル選手権試合やザ・デス トロイヤー戦、全盛期のジャイアント馬場やアントニオ猪木の試合など数々の激闘を、 1978年(昭和53年)までの21年間にわたり実況してきた。 まさに「テレビはプロレスで始まった」時代の寵児ともいえるアナウンサーであり、後輩 たちをしっかりと育て上げられた。 だが、64歳で病没された。 先日のこの欄で、NHKの石田アナが63歳で病没されたことを述べたが、清水アナも殆 ど同じ享年だった。両者ともアナウンサーの仕事に人生の全てをかけた生き様だったよう に思え、感服を禁じ得ない。 清水アナについては、以前のこのエッセイ欄「旅の途中で(4)・2022年6月16日付」でも 述べていますので、是非ご覧ください。 この続きは、次回にでも。 それでは良い週末を。 |