珈琲を飲みながら(2)
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(前回の続きです) 自宅から徒歩10分にある「喫茶店・ドトール」で珈琲を飲んでいたら、2つ隣の席のベ ビーカーと、その前に座って珈琲を飲んでいる母親の姿が目に入った。 私の隣席(2人席)が空いていたので、幌(ほろ)がしていないベビーカーで寝る乳幼児 の小さな可愛い顔が、ダイレクトに見てとれた。 「生まれて数か月であろう赤ん坊の顔は、どの様な家庭環境の下に生まれようが、みな等 しく純粋で、新しい生命で輝いて見える」と改めて感じた。 「だがその純正の魂も、それが年を重ねて成長するごとに、自我の発達と共にいつしか家 庭や社会の様々な手垢がついて変貌してしまう。そして二十歳を過ぎた頃には、それなり に世間づれした知恵とふてぶてしさが備わった「大人」となって、社会に出ていくのだ。 この子は、これから20年後の日本の社会で、果たしてどういう人間に育っているだろう か。私は既にこの世から消え去っているが、20年後の今でも、輝いて生きていてほしい」 と思った。 犬でも猫でも馬でも羊でも、動物の小さい頃は、みな可愛いいものだ。 可愛らしさは顔や身体だけではない。動作も含んでいる。 だから飼い主からみたら、小さい頃はもとより大きく逞しく育った後も、その可愛さは変 わらなく、継続してこまめに世話をしていけるのだろう。 だが、人間と同様にその育て方により、その性格差が生まれてくる。 例えば犬の場合。日頃から周囲で散見される飼い犬から、それが見てとれる場合がある。 犬の身体が成長するにつけ、人見知りをしたり、警戒心が高まって攻撃的になったり、飼 い主の指示通りに動かない厄介なものも出てくるようだ。 それが動物本能で、当然の成り行きかもしれないが、多くはこれまた人間同様に、飼い主 や周囲の人間の影響が大きいようだ。しばしば調教なのか虐待なのか判別がつかないよう な飼育を受けたと思われる、痩せ細ってしっぽを垂れた覇気のない犬や、やたらに他人に 吠え続ける犬に遭遇することがある。 だがそれでも、飼い主がいるだけ幸せな犬だと言えるかもしれない。 会社社会でも、解雇されたら路頭に迷い、食うにも困る生活に陥るから、やたらと上司に すり寄ってポチに徹する者も少なくないのだから。 昔は、というか東京タワーが建った昭和33年の頃(私が小学6年生の頃)は、今の様に どの犬も飼い犬ばかりということはなく、飼い主不明の野良犬も多くいた。彼らは原っぱ や寺社の境内や公園や工場の廃材置き場や廃屋などにいたりし、時々私が閑静な住宅街の 道を下校していると、前方から道の端をクンクン匂いを嗅ぎながらやってくる野良犬の姿 を見つけ、慌てて犬の目を見ずに、素知らぬふうに早足で通り過ぎて行くのが常だった。 犬には首輪がないので飼い主不在の野良犬。人に捨てられ、あるいは親の野良犬と別れた 一匹犬なのだ。 時々、原っぱで遊んでいたり、買い物で夜道を歩いていたりすると、突然ワンワンと威嚇 され、驚いて逃げ帰ったこともあった。人間が怖いのだろう(保健所の野犬狩りも盛んに なっていた時代だった) あの頃、野良犬に噛まれたら狂犬病になる恐れがあると言われ、恐れられていた。野良犬 は人間の大人にも子供にも嫌がられ、竹ざおでつつかれたり石を投げつけられて逃げ回っ ていた。自分を捨てた(?)飼い主も、人間の誰もが自分には冷たい「怖い動物」だった のだろう。 ある時期、どこを住処にして生きている犬なのかはわからないが、夕方の時間に近所の原 っぱを通ると、原っぱの壁際の片隅にうずくまっている、茶色のやや小さめの野良犬に出 くわすことが、しばしばあった。 ある時、物欲しげにこちらを見つめている野良犬の目と、目が合った。私が何気なくポケ ットに残っていた森永キャラメルをむいて一つ放ってあげると、尻尾を振りながらピチャ ピチャと舌先で舐め続けるのだった。 それから、時々どこかで偶然にこの野良犬に出会うと、相手も歩みを止めてじっとこちら を眺めていることがあった。でも、こうした時に限って、私のポケットにはキャラメル1 個もビスケットのかけらさえも無く、黙って駆け足で帰路を辿るしかなかった。 だが、野良犬より十二分に幸せなはずの飼い犬でも、怒鳴られたり叩かれたりして訓練さ れ、自然に人間に対する恐怖感が沁み込まされているのかも知れぬ。 飼い主には調教の成果から動物的本能で従順になるが、他所の者には絶対になつかない犬 や猫を、何回も見てきた。いや、それが普通なのだろう。 馬の場合は、過日のこのエッセイ「夏がゆく(5)2023年8月24日」で既述してい るが、大きな壮年馬に初対面ですぐに乗馬し、北の果ての大地を走り回ることが出来た。 本当に、人の気持(感情)を敏感に察する ことが出来る、賢いめんこい動物だと感嘆した が。 さらに反対の例もある。 例えば、私が小学生の頃に友達の家に遊びに行った時。小型の雑種犬が家の庭先に座って いたので、私は近寄ってしゃがみ込みながら「よしよし」と、犬の背中をちょっと撫でて みたが、じっとしていた。 それで今度は頭を撫でてやろうと顔に手を向けたのだが、その瞬間、素早い速さで私の手 の甲を思い切り噛んだ。その驚きと痛さは大きかった。私が「痛い!」と叫んだら、友達 の母親が出てきて「あらまあ。この子は撫でては駄目なのよ。知らない人にはすぐに嚙み つくし、私にだって時には噛むんだから。これから気を付けてね」と言って去って行って しまった。 私は子供心に「あとで言われても遅いよ・・」と、犬と母親の対応に、泣きべそをかきそ うになった。 今なら、「犬も犬なら、飼い主も飼い主だ。両方ひどい!」と、愚痴の一つも声に出して いただろうが(笑) まあ、その後の犬や猫への対応の仕方への教訓にはなったが。 要するに「可愛いものはみな純粋で良い」ものではなく、すべからく「動物は防衛本能が あるから、安易な性善説では駄目。油断大敵。 旧聞に属するが、かって野生のライオンの子供3匹を飼いならし、家族の様に一緒に住ん でいたケニアの狩猟監視官夫妻が、「野生のエルザ(注・ライオンの名前)」という自著 を発行し、エルザと家族の様に戯れる写真と共に日本でも大きな話題になったことがあっ た。 こうした野生の猛獣を飼いならして長年一緒に住んでいた出来事は、世界でも殆どなかっ た。それほど奇跡的で困難な事であることは、今も変わらないだろう。 確か日本でも、戦後の社会で歌手やタレントとして人気を博していた動物好きの松島トモ 子さんが、あるテレビの番組のロケでケニアに行き、人慣れしたエルザの子孫の7頭のラ イオンのうち、1頭と戯れていた時、突然に噛まれて全治10日間のケガを負ったという 出来事があった。 また、野生動物のみならず、動物園で管理飼育されて育った猛獣も同様で、長年の飼育員 が食事を与えている際に突然襲われて死傷したという出来事も、しばしば聞く。 人と動物の関係は、人類誕生の頃から「食うか食われるか」であり、特に動物にとって人 間は「自分達を殺して食うか、捕獲して毛や皮をはぐか、従属させて飼い慣らすかする、 地球上で最も恐ろしい動物」と感じるのが本能。生まれた時から身についている防衛本能。 話は戻って。 人間は社会的な動物。 したがって前述したように、歳を重ねるごとに、社会と共に変貌していく。 今や大量の人類が、それぞれの国籍や人種という首輪を嵌めながら分別され、文化や教育 や社会規範などを異にして、国内でも国外でも資本主義という経済社会の理論にのって、 飽くなき利益獲得競争に明け暮れている。それは個人対個人、個人対社会、会社対会社、 国内の対立から、国対国、民族対民族の対立であり、あらゆる場面で生死をかけた利益の 分捕り戦争が勃発しているのが、現代社会の実相だろう。 ロシアによるウクライナ侵略戦争も、イスラエルのパレスチナ自治区ガザへの攻撃も、今 だ和平への光が見いだせず、夥しい数の死傷者と難民を生み出している。結局、動物世界 で一番獰猛な人間は、お互いを殺し合って消滅していく運命にあるのだろうか。 私が珈琲を飲み終えようとした時、ベビーカーの赤ちゃんが泣き始めた。 母親が抱きかかえ、膝の上に座らせてあやしていた。 それでも首をそり返し、むずかって泣いている。 母親は周囲に気兼ねして一生懸命にあやすのだが、泣き止まない。 私は赤ちゃんの顔をずっと見つめていた。すると赤ちゃんの目が私の目を捉えた。私がす かさず「うんうん、大丈夫だよ」というように頷くと、「何だろう?」というふうに見つ め返す。それで思い切りの笑顔を向けると少し笑った。そして他の方に目をやってから、 また私を見る。そして私が笑顔で「よしよし」というように大きく頷く。 すると今度は、母親の膝の上でピョンピョンとはねながら「キャッキャッ」と声を出して 嬉しがった。 私はこの時、まさに「目は口ほどにものを言う」ということを実感した。 スマホのメールだけが伝達手段ではない。相手の目を見て接することこそ、フェイクもく そもなく、ダイレクトに気持ちが伝わるのだろう、と。 赤ちゃんの泣き声はやんだ。 私は残りの珈琲を飲み干して席を立った。赤ちゃんを見つめると、またきょとんとしてこ ちらを見た。母親が優しそうな目を私に向け、軽く会釈したのを確認して店を出た。 外は、初夏の光がまぶしく輝いていた。 あの赤ちゃんの目の輝きだった。 今日も平和な一日になるだろう。 そう思いながら帰路を辿ったのだった。 それでは良い週末を。 |