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東井悠友林

    ~つれづれの二題
      
 (公財)パブリックヘルス・リサーチセンター
        専務理事
          中 山 淑 子
 
① 織りおりの朝
 通勤は最寄り駅・田園都市線「つきみ野駅」から一つ先「中央林間駅」まで行き、始発の半蔵門線直通押上行き急行電車に乗り、「九段下駅」で乗り換え、東西線「早稲田駅」下車というように、所要時間約1時間40分ぐらいかけて、なんと30年以上も同じルートで通勤しています。
 駅までの距離は1350m、少し急ぎ足ですと17分ぐらいですが、特別なことがなければ25分ほどかけて、ゆっくり歩いています。
 歩くことは健康に良く、歩きながら景色の移り変わりに気づくこともまた、楽しいことです。短い時間ですが、穏やかで心地良い気分になります。
 歩きながら見つけた草花からあらたな感性を呼び起こされ、心の栄養を頂けることの喜びもあります。
 朝の道。
 6時10分台は人も少なく(決まって二人か三人)、通りなれた路上でも期せずして美しい花や木々の芳香で、その存在を知ることが多いです。
 緑の多い住宅からは夏ミカンの木、梅ノ木、ツワブキの黄色い花、菊、バラの花、アジサイの花などが歩道まで顔をだし、ところどころにある空き地には栗の木やザクロの木,マキの木やススキ、タンポポ、雑草が覆い茂り、秋から冬にかけては、しなやかに揺れるススキの穂、黄色や赤に色づく木の葉、落葉を終えた裸木等季節を早く感じさせてくれます。

 今の時期はハハコグサやガクアジサイのつぼみがゆかしく、憂いに富んだ色合いを見せています。車道沿の等間隔に植えられた並木の根元にはパンジー、コデマリ、小さな白いスミレ、色とりどりの撫子などが咲き、雑草の中にはドクダミの白い花、ヨモギの新芽、名前を知らないたくさんの草花が、それぞれに独自の個性を調和させながら育っています。
時には「雑草さん、おはよう!今日はいい天気だからお日さまに向かって背伸びして」とか、「葉っぱや茎にいっぱいに雨を注いでもらって」と声をかけながら、私も元気に駅へ向かいます。(そんな日ばかりではありませんが・・・・。)
 植物は晴れた日も雨の日も雪の日も嵐の日も、その時々の自然と溶け合いながら、生命を保ち生きていることを知ります。一日一日精一杯生きていることは私も自然の一員であること、生きとし生けるものすべて同等なのだと思い、自然に寄り添いながら自然との協奏を続けたいと思います。
 
 ベストセラーになった、「置かれた場所で咲きなさい」の著者渡辺知子氏(ノートルダム清心女子大学学長)の本の中から心の持ちようを思い出しました。
「一日の中、5分でも、10分でも静かな時間を、
  一見「無駄な時間」をつくらなくてはいけないのです」


② わたしと自然
  先日、渋谷東急本店ジュンク堂・丸善で草花園芸の書棚から、偶然に山草の図鑑が目に入り、ついつい衝動買いをしてしまいました。
 開いてみると色別の茶花、山草545種が掲載されており、コンパクトサイズなのでいつもバックに忍ばせています。ページをめくり大好きな「スミレの花」を真っ先に捜します。私が高校生の頃知った好きな五・七・五の俳句、芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」はよく口にしてきた句です。一時期、年賀状に筆書きした句でもあります。
 スミレは万葉にも良く詠われていますが、スミレ属は50種があり、スミレ、ツボスミレ・タチツボスミレという種名があり、総称なのか特定のスミレを指しているかは不明で、現在のスミレとは直接的に結びついていないとのことです。私がよく見るスミレは正確でないかもしれませんが勝手にタチツボスミレだと思っています。学名、科名、属名を気にしながらもそれなりに楽しんでいます。
 確かな記憶ではないのですが万葉の植物に詠まれたスミレは食用としてのスミレであったとも。一度食したいと思ったことがありますが、いまだ実証しておりません。
 スミレの優しくけなげに咲いている姿は歌人や俳人の心に響き、多く詠まれたのでしょう。植物学者・牧野富太郎博士は「その花がつぼめる形で、あたかも壺に似ているから、、つぼすみれ」だと記していました。
 スミレだけではなく好きな植物や花について、もう一つ、もう一つと万葉集に取り上げられている植物と比べながら万葉の歌に込められた当時の人の思いや歌の意図に触れてみたいと・・・もとより国文学や植物に関する学術的・科学的知識はなく、何を感じるか予測できない楽しみを見つけたい自己満足に過ぎない、と自覚しつつも、誠に贅沢なこれからにしたいとも。
 春は新緑のさわやかな芽吹き、草花の色づきや野草が一気に増えるこの時期、ちょっとこころを動かされます。かつて購入した奄美の絶滅危惧植物、野草の図鑑を書棚から卸し、気の向くままに開き、植物にも心を寄せながら徒然に楽しんでいます。
 その原点となっているのは中学時代の科学クラブ(動植物、天体、海洋、映像)に、高校時代は生物クラブ、化学クラブに所属したことにあり、自然の不思議さに単純に惹かれてきた自分史があります。
 中学時代の理科の先生から「生活を科学する」という合理性を追求する姿勢を教えられたこと、資源(水や熱源、食物)に対する理にかなった効率的な使い方、日常での実証を体験したり知ったり大きな影響を受けました。そして高校では自然環境のことを学び、山登り(694m)、野山での植物採取からの標本作りをしました。中には食虫植物の営みに興味を持ち、いくつかの標本作りに夢中になり、その成果を残すこともできました。アオキの木の標本は博物館へ届けられ、まさに、純粋に自然に同化した時代であったと思えます。今、自然と生物から受けた動物的五感はわたしの感性の財産となっています。
 生物の先生は、植物に関する学名、和名、科名、属名の横文字を流れるように発せられ、その度に驚嘆したことや植物と動物の自然の摂理を紐解かれ、共生を知りました。 そこには極めている人の哲学が存在していたことを思い出します。

 ふと目に留まった「心穏やかに心地よく暮らす」というある本の連載のページを読むことがありました。曹洞宗住職の枡野俊明氏が説かれた禅語です。
 逢花打花 逢月打月 (はなにおうて はなをだし つきにおうては つきをだす)
 その意味は 花に逢ったら花を愛で 月に逢ったら月を愛でる
  (打は{打つ}ではなく、ある事柄をするという意味からさらに「受け入れる」 という意味に。)
  すなわち無心に受け入れて分別や執着を捨て無心になる時間が大事とありました。
 そのことは、自然との共生の中で見つけられるのでは、と思っているこの頃です。