東井悠友林
~愛こそすべて~
元長野県厚生農業協同組合連合会
健康管理部次長
柳 澤 正
エッセイを依頼されましたが、特に書くこともないので、自己紹介がてら、少々思う所を述べてみます。
今年72歳になりました。本籍及び現住所は長野県佐久市臼田。私は8人兄弟(男4人、女4人)の7番目に生まれた4男です。国家公務員だった父は2年に1度の頻度で転勤を重ね、私も小学校は4回変わりました。兄弟は皆、小・中・高校がほとんど違います。
兄弟は今も全員健在です。
年一回、私の万年幹事で4月に泊まりで兄妹会をしています。一同揃っての安否確認と顔を見ながらの近況報告です。
昭和42年に父が退官して臼田で司法書士を開業しました。私は新潟におりましたが、 ちょうど佐久病院で職員募集していたので、これに応募。私は野球も少し出来たせいか、採用になりました。
本当は、看護婦さんに憧れていのかもしれませんね。
佐久病院で4年ほど経過して結婚しました。相手は看護師さんではなく、病院のバレー部に入ってきた近所の女性。どういう訳か専業農家の養子になってしまいました。
病院に勤めていた妻も、今は退職し高齢者夫婦二人住まいです。
私の特技は片付け。趣味は国内外問わず旅行です。
現在は畑仕事のかたわら、一般社団法人・東井悠友林に参加しています。
「共助を基本理念とし、国民の健やかで触れ合いに満ちた生活の実現に資すること」 という、法人の目的に共感しています。
専門の方による健康講話は興味深く、またその後の懇親会が楽しく、しばしば上京して参加しています。
東井さんとのご縁は、1982年、東井さんが老人保健局老人保健課在任中に、若月院長と交歓野球の話になり、「武蔵小金井の農協グランド」において同年の12月の土曜日、私を含め病院野球部OBを中心としたチームが上京し、第1回が日帰りで行われました。確か7対4で佐久病院が勝ったことは、言うまでもありません。
以来、東井さんが創部した厚生労働省の野球部「ブルーバッカス」とは、毎年交流試合を佐久の地で行っています。
「いい汗かいて いい酒飲もう。 たった一度の人生だから」
「 One for all All for one(1人は皆のために 皆は一人のために)」 をスローガンとしたブルーバッカスととの交流も、今年で36回(年)になります。
もちろん 試合後の懇親会では朝方まで飲み明かすことは言うまでもありません。
さて、佐久病院には昭和42年に就職。この年に地下一階地上7階建ての病棟が完成した年でもありました。318番目の職員でした。現在は約2000名。
野球部に所属しながら、中央滅菌材料室に配属になりました。
外来、手術室等で使用する医療器具の提供でした。様々な病気について、勉強になりました。
昭和44年に、財団法人日本農村医学研究所に出向になり、農薬中毒問題、特に「有機水銀による奇形」「有機リン剤による神経毒」のサル、モルモットによる動物実験でした。
時には、夜、サルと一緒に群馬大学に行き、神経毒の脳波測定実験を朝まで行ったこともありました。先生方は、昼間診療があるので、実験は午後8時頃から夜中2時頃までで、大変でした。
WHOから「日本人における水銀の慢性中毒と人体残留の調査研究」を依頼されたのもこのころでした。国内外から取材が頻繁にあり国会でも、農薬汚染が取り上げられました。
この年は、アポロ11号が月面に人類の第一歩を記録した年でもありました。
農家の方から「百姓から農業を取り上げるつもりか」などと、苦情をいただきましたが、若月院長は「人体・環境に危険な農薬の使用禁止と、安全な農薬」の重要性を熱心に話されました。それが若月先生とのご縁のはじまりでした。
それから三年後には、PCBなどによる環境汚染が社会問題になったことが思い出されます。
環境が破壊されれば元には戻らないということです。勉強になりました。
この経験もあり、現在、家庭菜園には、有機栽培で化学肥料・農薬は一切使用していません。冬も、ビニールハウスを作り、野菜を作っています。
結構、マイナス温度でも作れます。
ここで、在籍した演劇部の話もしたいのですが、野球部の話を少し。
昭和45年8月、 新聞等で写真入りで報道された名門「SSチーム」との決勝戦。
一点を争う延長戦で、我がチームのピッチャーT氏が、ライン上で補球態勢に入った所に、相手選手の体当たり事件が発生し、乱闘事件になってしまいました。
常日頃、若月先生は「出場するからには、トップを目指せ。でも選手である前に、医療従事者であれ」と選手に言い聞かせておられましたが、その意に反してしまったのです。
でも若月先生は、けがをした選手を思いやり、なにも言いませんでした。この時、人に対する思いやりを勉強させられました。この試合は日没再試合になりましたが次の日は勤務の都合上辞退しました。ところで、佐久病院の野球部は国体2連覇などを達成しましたが、私の現役の頃は残念ながら万年県下2位でした。
昭和49年に佐久病院の健康管理部に異動になりましたが、この頃から、佐久病院の保健予防活動(健康管理活動)への本格的な取り組みが始まりました。
まず、「八千穂村の全村健康管理・集落ごとの出張健康診断」。 秋の収穫が終わった農閑期に、夕方5時ごろからの受付で開始。終わるのが9時近く。それから反省会。もちろん酒はつきものでした。
職場に帰り残務整理。家に帰れるのは12時になることがほとんどで大変でしたが、「健康管理の大切さ」も体で覚えられ、やりがいもありました。
その経験から 全県下の健康管理の要望もあり、前年48年10月に設立された厚生連「健康管理センター」も兼務して、北は栄村、南は木曽福島町など、ほぼ県下全町村に、「医師ほか十数名でバスに心電計などの機材をのせ、一週間の泊まり込みで、集団健康スクリーニングを巡回して行いました。
現地では、健診が終わると町村長、農協組合長との懇談会も計画されていて、宴会もつきものでした。幾ら好きでもこれにはこたえました。
特に、北信地方は大変でした。宴会には北信流と言って、謡に合わせながら、ギブアップするまで飲み続けるわけです。次の日が、辛かったのは勿論のことでした。
また、一ヶ月後には、結果が出るものですから、結果報告会として保健師・看護師さんとまた現地に出張するわけです。
個人相談は勿論のこと、その地区の健康度も統計処理し問題点を提供していました。都合25年間取り組みました。
健診は、常に日曜日午後に出発し、金曜日の夜帰るパターンでした。
月の半分は出張でした。妻には、かなりの負担をかけました。
「早期発見」がいかに大切かも身をもって覚えました。
長野県厚生連の本所への異動の内示が、平成11年1月にありました。2・3日後の返事とのことでしたが、返事をしないうちに、廊下ですれ違った時に若月先生から「本所勤務だけど、頑張ってね」とのこと。もう外堀は埋まっていました。最後まで巡回健診に関わっていたかったのですが。
また、若月先生は「事務屋さんは病院全体の管理部門であり、赤字を出してはいけない。経営を守るということは、病院、家庭、地域住民、厚生連を守ることであり、それは平和を守ること」とも、おっしゃっていました。
健康とは、心身ともに正常なこと。
今、悲惨な事件、事故が多発しています。健康度が低くなってきているのでしょうか。
私もこの9月で72歳になりました。あっという間でした。
今思えば もっと本を読み、勉強すれば良かったと振り返っています。
最近になってフェースブックを始め脳活はしていますが、遅いですね。
そろそろ終活の年齢になりました。
また、健康なうちに趣味の旅行も始めたいと思います。
最近では、チベットでヒマラヤを裏から見たので、表から見たくてネパールに行ってきました。標高5,000メートルを超える高所でしたが、うまく順応出来たので感激でした。子供には、疫病神だからやめたらと言われていますが、マチュピチュもどうしても行きたくて、行ってきました。本当に感動的でした。
今人生90年の時代です。マネープランも作り、良い終末を迎えたいと計画しております。
現役の時に、健康管理担当として同僚の死にも直面しました。
また、せっかく人間ドックを受けたのに、忙しがって再検査に行かず死期を早めてしまった友達もおりました。もっとしつこければと悔やまれます。
虫歯と思い放置した結果、歯肉がんで手遅れになり亡くなってしまった60代の身内もおりました。残念でなりません。
長い話になってしまいましたが、私の言いたかったことは、一年に一度は必ず健康チェックをし、みつかった病気は怖がることなく早めに再検査し、治療することです。
手遅れの理由に、仕事が忙しいと言って受診しない人が多いのです。男性が特に多いのです。早く見つけ早く治療をしていただきたいのです。
若月先生は「早期発見、早期治療」に取り組んできました。
私も一緒に仕事をさせていただき、旧八千穂村の国保医療費が全国で一番かからない市町村、また長野が長寿県、老人医療費が全国一低くなったことに、ほんの少しは貢献できたかなと自負しています。
若月先生が好んで使われた言葉に「愛こそすべて」がありました。
私もこれからの人生、人や自然に対する愛情を失わないで過ごしていきたい、と思っています。