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東井悠友林

 ~産科医療補償制度について
      
 公益財団法人日本医療機能評価機構
             専務理事
     (元厚生労働省総括審議官)
        上 田 茂
 
  
  私は、昭和51年に厚生省(当時)に入省し平成17年に退官するまで、長い間衛生行政に携わってきました。本省では国の制度や事業等について企画するなど、やりがいのある貴重な経験をすることができました。しかし、各部署での勤務が1~2年と短かったため、自分たちが企画した事業を自ら実施する機会はあまりなかったと思います。一方、岐阜県と栃木県に出向してそれぞれ4年半、4年間と比較的長く勤務しましたので、地方自治体での保健医療活動に関して企画し、そしてその活動を実施し評価するなど、楽しく仕事をさせていただきました。

 現在、日本医療機能評価機構に勤めていますが、評価機構が運営している産科医療補償制度については、制度設計、開始までの準備、そして運営に携わり、さらには制度改定も経験するなど、これまで長期間にわたって取り組んできましたので、私にとって思い入れが深い事業となりました。また、医療における初めての無過失補償制度であり、わが国の産科医療の質の向上に寄与するなど一定の成果を上げていると思いますので、この機会に、産科医療補償制度についてお話をいたします。

 わが国の周産期分野の医療については、関係者の努力や医学・医療の進歩等により、周産期死亡率や新生児死亡率は世界でもトップクラスの低さとなっていますが、近年、産科医療分野では過酷な労働環境であることや、分娩時の医療事故では過失の有無の判断が困難な場合が多いため医事紛争が多いことなどにより、分娩の扱いを取りやめる医療機関が増え、また産科医を希望する若手医師が減少するなど、産科医療崩壊の危機が叫ばれるようになりました。

 本制度は、このような背景から安心して産科医療を受けられる環境を築くために、平成21年1月に創設されました。分娩に関連して発症した重度脳性麻痺児とその家族に対して補償が行われますが、本制度の定める基準に該当した場合は、分娩機関に過失があったかどうかに関係なく補償対象になり、3千万円が20年にわたって支払われます。また、すべての事例について原因分析が行われて、原因分析報告書がその家族と当該分娩を行った医療機関に届けられ、脳性麻痺発症の原因と同じような事例の再発防止に資する情報が提供されます。また、個々の事例情報を体系的に整理・集積し、再発防止の観点から分析して再発防止報告書が公表されます。原因分析や再発防止の観点から分析を行うことにより、脳性麻痺発症の原因や再発防止に関して色々な知見が得られており、また本制度に関連したテーマが関係学会・団体等のシンポジウムや講演、研修などでたびたび取り上げられ、熱心な議論が行われています。さらに、産婦人科診療ガイドラインや助産業務ガイドラインでも本制度の取り組みが引用されております。このような動きは、脳性麻痺発症の減少や産科医療の質の向上に繋がるものと考えます。

 本年は制度が発足して11年目になりますが、平成31年1月末現在で、これまでの補償対象者数は2,617件であり、原因分析報告書は2,228件が作成され、児・保護者と分娩機関に送付されるなど、産科医療関係者や妊産婦の皆様のご理解とご協力により円滑に運営されています。

 産科医療の深刻な事態を解決するために、平成15年頃から、産科医療や小児科医療の関係者等により、無過失補償の考え方を取り入れた新たな補償制度について熱心に議論や研究が行われてきました。そして、このような医療関係者の熱い思いが政治にも反映され、平成18年11月に「自由民主党政務調査会・社会保障制度調査会・医療紛争処理のあり方検討会」において、「産科医療における無過失補償制度の枠組みについて」が取りまとめられましたが、この枠組みにより、制度創設に向けて大きく前進することになりました。この動きを受けて、厚生労働省が、民間保険制度や、制度の財源について健康保険の出産育児一時金を活用するという新しい仕組みを考えるなど強力に支援していただきました。
 近年、わが国の財源状況は厳しいため新しい制度を立ち上げることは大変難しい中で、このように本制度は極めて短期間に創設されましたが、その要因としては、産科医療関係者が無過失補償制度に関する研究に熱心に取り組み、本制度の創設を強く働きかけたこと、またこれらの動きを政治と国がしっかり受け止めて積極的に取り組んだことが、実現に繋がったものと思います。また、民間保険という新しい手法も大きな推進力になったと思っています。今後も、民間活用の視点は大事ですので、本制度はきっとモデルになると考えております。

 制度設計を行うためには根拠となるデータが必要でありますが、残念なことに、わが国には各疾患の疫学的な調査が欧米のように十分には行われていません。全国的な脳性麻痺児のデータについても同じように乏しい状況でありました。そのような中で、沖縄県と姫路市において長年にわたって熱心に疫学調査をされていた研究者がいましたので、その貴重な調査結果をもとに検討して、制度設計を行うことができました。わが国における疫学調査や臨床研究がもっと活発に行われることが求められます。

 本制度は、補償の機能と、原因分析・再発防止の機能とを併せ持つ制度であり、いわば車の両輪として機能することで、分娩に関連して脳性麻痺となった児の救済とともに、医療の質の向上を図ることを目的としています。
 原因分析委員会には、医療関係者だけでなく、法律家や患者の立場の有識者も加わって、公正で中立的な立場で医学的観点から原因分析が行われています。また、原因分析は、責任追及を目的とするのではなく、医学的観点から脳性麻痺発症の原因を明らかにするとともに、同じような事例の再発防止を提言するために行っています。

 原因分析報告書に関するアンケート調査はこれまで5回にわたって行われていますが、直近の昨年9月~10月に行われたアンケート調査では、原因分析が行われたことについて、保護者では「とても良かった」「まあまあ良かった」が70.6%、「どちらとも言えない」が19.4%、「あまり良くなかった」「非常に良くなかった」が10.0%であり、分娩機関ではそれぞれ84.8%、11.5%、3.7%でありました。また、「とても良かった」「まあまあ良かった」と回答した理由については、保護者、分娩機関ともに「第三者により評価が行われたこと」が最も多く回答されています。このように、保護者、分娩機関はともに原因分析報告書を評価されていると思われます。
 当初は、原因分析を行うことがかえって訴訟が増えるのではと心配する声もありましたが、最高裁判所の統計によりますと、産婦人科に関する訴訟は減少しており、その割合は全診療科よりも大きくなっています。
 産科医療関係者が原因分析・再発防止に真摯に取り組むことが、国民の医療に対する評価や理解に繋がっていると思っています。
 今後も、本制度がさらに充実してわが国の産科医療の質の向上に貢献できるように、一生懸命取り組みます。