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東井悠友林

   ~人事異動によせて
      
 佐久市市民健康部 国保医療課長
       東 城 洋
 
  
 私は、長野県佐久市役所国保医療課の東城と申します。  佐久市役所では国の機関へ初めてとなる平成11年度研修生として、当時の厚生省地域保健・健康増進栄養課でお世話になりました(そのときの課長補佐が東井さん)。
 それから20年のときを経て、国民健康保険、後期高齢者医療、年金、福祉医療費給付金などの事務を行う現在の課に着任してから4年が過ぎようとしています。

 国保医療課への着任時、団塊世代の前期高齢者を中心とした保険給付費の増加、それを支える若年世代被保険者数の減少などにより、これまでの国民健康保険の優良保険者佐久市においても例外なく、厳しい財政運営が続いておりました。
 平成20年4月からスタートした後期高齢者医療制度の長野県における広域連合の立ち上げに携わってきたことや、市の財政担当での経験が長いこともあってか、早々に、制度開始以来と言われた今般の国民健康保険制度改革を目前に控えた市国民健康保険財政の再建・健全化という大きな課題に取り組むこととなりました。

 まず着手したのが「国保財政健全化計画」(法定のものではなく任意)の策定でした。
 国民健康保険は、「特別会計」設置が国民健康保険法で義務付けられているところ、赤字補てんや保険料を引き下げることを目的にした「一般会計」からの法定外の財源投入は本来行うべきではないと考えますが、そうなると「保険料(佐久市国保では税)の引き上げ」ということになります。
 しかし、急激な被保険者の負担増加となることから、これを避けるため、計画的な税率等の見直しと合わせて、健全化計画期間中の臨時的措置として一般会計からの法定外の財源投入を行うこととしました。
  「財政健全化計画」ではこのほか、ジェネリック医薬品の使用促進の強化、早期発見早期治療の強化(特定健診受診率・特定保健指導率の向上)、糖尿病性腎症等の重症化予防の強化など、保健事業の取組み強化による医療費縮減を目指すことも掲げました。
 その後は、住民説明会を経て策定した「財政健全化計画」に沿って取り組んでいくことになりましたが、やはり保険料(税)の引き上げの際は大変な苦労となりました。

 次に(というか並行して)着手したのが、「福祉医療費給付金」の対象者の拡大等でした。
  「福祉医療費給付金」は、地方独自の事業として、子どもや障がい者の医療費自己負担額の助成を行うもので、佐久市では、平成28年度から、長野県内では初めてとなる妊産婦への助成を開始し、また平成29度から、「子ども」に対する助成を「高校卒業程度まで」に拡大し、さらに平成30年度では、これら「子ども」への助成方法を「現物給付化」いたしました。
 一見、国民健康保険の保険料(税)の引き上げとは無関係に思われますが、この「福祉医療費給付金」の対象者の拡大等があったからこそ、国民健康保険の保険料(税)の引き上げができたものと考えております。

 現在、佐久市の国民健康保険は、被保険者の皆様のご理解・ご協力、市を挙げた国保会計への財政支援・保健事業への取り組みなどにより、財政再建・健全化への道を着実に歩み始めています。また、国民健康保険は、制度改革により、平成30年度からの財政運営は都道府県が主体となって行われることとなり、都道府県内での保険料率等の統一も掲げられていることから、今後は、統一に向かっての各市町村間のすり合わせが行われることになると思われます。
 国民健康保険の財政運営にかかわってきたものとしては、早期の統一を望んでおりますが、多くの課題をクリアしていかなければなりません。その中の一つではありますが、社会保険などからの依存財源の多寡に左右され、毎年度保険料率が変わり、被保険者にとって保険料額が予測しにくいという点があります。後期高齢者医療制度や介護保険制度のように、複数年の平準・安定期間を設けることの必要性を感じています。
 いずれにいたしましても、改善への灯は、これからも国・県・市町村のいずれにおいても絶やすことなく、つなげていくことが必要ではないでしょうか。

 最後になりますが、国保医療課での4年間は、息をつく暇がないほど忙しい毎日でしたが、刺激にあふれ、多くの人とお会いできたことを嬉しく思っています。
 先日、久しぶりに異動の内示をいただきました。異動先は、初めてとなる教育委員会の文化振興課です。所管する施設、職員、行事、かかわる人も多く、施設のリニューアルやリノベもあり、その分処方箋の無い課題も多いとお聞きし、早くも憂鬱感たっぷりです。
 かつて佐久市では、総合文化会館の建設の是非をめぐり住民投票を実施しました。
 当時、法規を担当する部著にいた私は、住民投票実施のための条例・規則の制定にかかわりました。そのとき以来の「文化とはいかなるものか」の答えを、身をもって探しに行くこととなりました。