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東井悠友林

   ~東井常務との思い出
      
 元・三重県厚生連立・菰野厚生病院事務長
       水 谷 幸 生
 
  
 今回、(一社)東井悠友林の東井代表から「テーマは何でも良いからエッセイを書いて」との電話を頂きました。東井代表には「私が書くエッセイは稚拙で取り留めもない文章になる」と、いったんは固辞したのですが、承諾させて頂きました。
 しかし、承諾したものの三重県厚生連を退職後、今日まで文章らしい文章を書いていないこと、それに「テーマは何でも良い」ということで、かえって文章を綴ることの難しさを痛感した次第です。
 テーマは当会の賛助会員でもある「無二の親友・藤田善英さんについて」、あるいは「東海道五十三次、徒歩で完歩」等を考えたものの、結局、表題が良いと考えました。
 東井代表については厚労省からのお付き合いの方(かた)が悠友林の会員の大半で、良くご存じかと思いましたが、ここでは平成16年4月から平成19年12月までの3年9か月の期間、三重県厚生連の代表権常務理事として在職(任)されていた東井代表について、部下の一人としての感想と思い出を述べさせて頂きます。

 東井代表は、平成16年4月に三重県厚生連の本部(津市)に常務理事として就任されました。
 三重県厚生連とは、JA三重(県内16の農業協同組合)が経営する医療団体です。7つの病院(松阪中央総合病院、鈴鹿中央総合病院、菰野厚生病院、いなべ総合病院、大台厚生病院、南島病院、鈴鹿厚生病院)と看護専門学校を有し、当時の役職員数は約2,000人、年間売上高約350億円でした。
 今度の常務さんは厚労省を退官され、東京から単身で赴任されると知りました。そして、私が在職していた業務部の直属の役員さんと言うことで、一体どのような人なのか、期待と不安を持ったものです。
 本部の全職員に対する初の挨拶は、中身は覚えていませんが言葉は標準語で物怖じすることなく、大きな声で喋られたことを今でもはっきりと思い出します。
 従来、この組織は閉鎖的で事務職等の採用は縁故採用が多く、能力に関係無く役職に就き、ただただ無難に仕事をやり過ごすという職場でした。そんな中に、生え抜きの職員でもない人を外部から役員として招聘することに驚き、古い体質のJA組織に馴染まれるのか心配でした。
 しかし、心配することは無く・・・いやいや私達下の者が知らないだけで、JA組合長や各連合会役員、病院関係者等から「天下り」と陰口を言われたと思います。お一人で単身赴任、周りは何者かと興味本位で様子を伺う目ばかりで、本当に大変な毎日だったと思います。
 その様な中、我々職員と親しく接する機会を与えて頂いたのが、当の東井常務さんで「本部に野球部を作ろう」と呼びかけをして頂きました。今の職場は仕事が終わればさっさと帰宅し、皆と酒を飲むことも無く、職員間で親しい関係を築くことが出来ない状態でした。そこで、男性職員に声掛けをしてメンバーを集め、チーム名「フェニックス」と命名し発足しました。野球経験者も少なからずいましたが、全くの初めてと言う者もいて、東井常務からグローブのさばき方・バットの持ち方等を丁寧に指導してもらいました。このチームの戦績は勝ったり負けたりの五分五分でしたが、勝利したときの喜びは格別のもので、車通勤の者も電車やタクシーで帰宅することとし、皆で飲んで騒ぎました。また、このチームが出来てから本部内での部及び課を超えての意思疎通が図られることになり、また、各厚生連病院との仕事以外での付き合いも出来るようになりました。以前は東海四県野球大会があり、その出場権を巡り病院対抗試合があったものですが、業務優先の方針から取り止めとなっていたので、職員同士の親睦・仕事のスムーズ化に野球部創設が大変役立ったと感謝しています。
 次に、当時の私の仕事は保健・福祉を担当していて、JA組合員等を対象とした健診活動と県下JAがデイサービスセンター等の福祉施設を立ち上げる手伝いが、主な仕事でした。
その中で、東井常務に大きく関与していただいたのが、JA婦人部と連携しての「食育推進事業」でした。今まで県(国)から助成金をもらってまで、大掛かりな講演会などを開催したことが全く無かったのですが、助成金の申請書類の作成、事業の企画立案などを熱心に指導していただき、事業の実現にこぎつけました。同時に国立健康・栄養研究所の渡辺理事長や厚労省の審議官など多くの著名な講師の方をお招きし、シンポジウムなどの事業を成功に導けたのも、東井常務の幅広い人脈と人柄のお陰だと感心させられたものです。
さらに、食育以外でも、三重県厚生連として、厚労省の局長・課長・室長さんらに講師としてご来県いただき、「医療制度改革の方向」「診療報酬改定のポイント」「医師臨床研修制度」「「医療安全対策」などのテーマで講演会を開催し、その時は県庁の方々など部外の人も多く参加されていました。
 それと、今でも東井常務に感謝していることは、佐久総合病院が毎年開催している「農村医学夏季大学」へ参加できたことです。君も保健・福祉担当者として一度「夏季大学」へ行き、佐久総合病院が取り組んできたことを学ぶように、と言われました。以前から佐久総合病院が組合員や地域住民の健康と生命を守るため、地域医療に取り組んでいることは労働組合を通じて知っていましたが、医療・福祉分野のみならず社会的に貢献した人を「若月賞」として表彰し、また農民の暮らしを題材にした演劇を職員が上演する等、地域に密着した医療・福祉を実践的に提供していることに驚きました。その取り組みに対し、翌年には三重県厚生連各病院の健診センター担当者と共に「夏季大学」を訪れ、多くの参加者と意見交換をさせて頂きました。
昨今、三重県厚生連がJA組合員を対象とした巡回健診を外部委託したことは、「地域医療を支える」「組合員と地域住民を守る」と謳いながらも、自らの使命を放棄したことだと思います。
 最後に残念に思うのは、東井常務に来て頂いて三重県厚生連に新しい風を吹き込まれ、活力ある組織に変化する機運が生じてきたのですが、任期をあと6ヶ月残されて退任されたことです。
東井常務は退任のご挨拶で「外部から来た私の使命は、一応終わった。
後はこの4年で立派に育った後進が、引き継いでくれると思う」と言われましたが、「あと一期」引き続き引き受けて頂いていればと、今でも思う次第です。
 以上が、東井常務さんが三重県厚生連で在任されていた時の一部下としての感想です。
 今でも当時の事が懐かしく思い出されます。