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東井悠友林

      ~私の天命

    元・心身統一合氣道会・本部師範
         片 岡 武 壽 
   
      
「手当て」という言葉がある。いつ始まった言葉なのかはわからないが、昔より世界各地で人の身体に手を当てて治療することは、当たり前のことだったのかも知れない。
手かざしの様な姿は、宗教的イメージで敬遠する人が沢山いるかもしれないが、私はそうではなかった。

それは私自身の幼いころの経験からで、私は生まれた時は丈夫だったが、物こごろついてからは虚弱体質で地元の小学校生活を殆ど覚えていないし、たまに遠足に出かけると途中で氣持ち悪くなりバタっと倒れたり、バスの乗車はすぐ吐き氣を催すので、いつも恐怖感に苛まれていた。
教室での授業の思い出は一切ない。幼馴染の女の子が宿題を自宅まで持ってくるため、寝床で解いてあげた記憶が残っていること以外は、いつも家の天井板の模様を辿りながら、自分が死ぬことを考えていることと、その後知った幽体離脱の現象で自分の布団に横たわる姿を眺めていた幼かった頃の自分を、思い出すぐらいだ。

元々は丈夫だったのが、麻疹と気管支炎を併発してから病弱になったと母親から聞かされた。結核の診断を受けてからは、投薬だけではなく、注射も病院や自宅で年中されていた。
そんな訳で身体はぼろぼろだったが、そのため母親や3人の姉達と兄には幸いイジメられず、可愛がわれて育ったのが心の救いだったのかも知れない。

特に母親からは心配され、いつもお腹や額に手を当ててもらう、所謂「手当て療法」を受けていた。
母親はよく私に言っていたが、手当てをするとその人の悪い場所が見えてきて、思いを込めるとその患部が自然に治るのだという。
例えば腸に腫瘍がある人を手当てしたところ、お臍から膿が出て治ってしまった話をしてくれた。
母自身も、生まれつきの蓄膿症で年中鼻が詰まっていたのが、ある日自分で鼻の両脇を痛いほど押すと、その晩、膿が洗面器一杯になるほど出て、それ以来治ってしまったという。
父が伊勢の地で倒れ、病院のICUでもう駄目ですと担当の医師から言われた時、家族全員が集まり、母が最後に父の額に手を当てながら「ありがとう」とつぶやいた時のことを、鮮明に思い出す。
手を当てた瞬間、何故か顔に赤みがさし、姉達も驚きそのことを医師に言ったのだが、医師は「そう思いたいのも分かりますが、残念ながらもうだめですのでお引取りください」言われ、結局病室を出されてしまった。
ところがその晩、突然父の意識が戻り医師達はビックリ。
胸に注射をしたり処置に追われて私達も近くに寄って父を摩りながら意識が戻っていることを確認。父が悶えながら必死に何かを言おうとしていたのだが、呼吸器が挿入されていたので声が出ない。言おうとしていることを聞くことができず、みんなで「何なの?何なの?」と言うしか無かった。

結局、その晩に父は帰らぬ人になってしまったのだが、もしみんなで手当てが出来る状況であれば、ひょっとして生き返ったのではないか、少なくとも最後の言葉の一つは聞けたはずだ、という思いが、いまだに私の心に悔いとして残っている。

そのころ、合氣道の「氣を研究する会」で働いていた私は、師匠の藤平光一先生から、「合氣道は試合は無いし、日常でやたらに使うことはできないので、実際にはどこまで自分の氣が強くなったを確認することはできない。だが柔道が柔道整復師を養成したように、殺法である合氣道ではなく氣圧という指圧の様な活法ならば日常に活用でき、しかもどれだけ自分の氣が伸びたかも確認できるのだ」と、教えられた。
その氣圧という活法を実際に師匠から受けて体験した時、「あっ!これは母から受けてた手当てと同じだ」と実感した。そのため何の躊躇いもなくこの世界に入っていくことができた。
その後、自分が何度か死ぬ目にあった時も、この療法のお陰で奇跡的に回復したし、難病で苦しむ人や病院では治らない人が次々と施術を受け回復していく様をみていると、宗教はこうして生まれたのかと思わざるを得なかった。

しかし師匠は、過去にその行為をお金儲けの手段のようにしてしまう多くの似非宗教家をみてきたため、会を宗教法人にすることは頑として拒み、厚生省認可の財団法人として公益事業を展開してきた。
私もその財団の理事として、「合氣道と氣」を併用しながら数多くの人を導いていたが、原点はやはり母と同じく、天からの授かり物の「手当て」だった。そのことを知ったお陰で、自分の奥底に有った闘争的な心をコントロールすることもできて今日に至ったことは、「ありがたい」としか言いようがない。

人の身体を癒す技術だけではなく、「愛する心こそが多くの人の魂を癒やし、心身を健康にさせる」ということを、これからも縁ある人々に伝えていきたい。それが私の天命だと思っている。

~氣との出会い~  (2017/8/1掲載)

私が初めて「氣」というものを知ったのは私の師であり、王選手の一本足打法や千代の富士を指導したことで有名な、当時合氣道十段の藤平光一先生を通じてであった。先生は戦後、合氣道を海外に普及させ、世界中に「氣」のことを知らしめたが、それにいち早く目をつけたのが、文化大革命で当時アメリカに亡命していた中国人の指導者で、その後気功法協会を設立して、氣のブームを巻き起こした。
先生は当初、合氣道を通じて「氣」のことを指導していたので武道家として見られることが多く、その意味で今は亡き力道山や極真空手の大山倍達なども、先生にだけは一目も二目もおいていたという。しかし先生の本当の念願は武道の根底にある「氣」の原理を健康や事業や日常生活の問題に活用してもらうことにあったので、意を決して昭和46年に財団法人氣の研究会創設し、日本の多くの人たちに氣の実在を知ってもらうため東奔西走を重ねた。私も縁あって学生時代に先生と出会い、現在栃木県にある総本部にて氣の研究啓蒙活動に参画している。

私は小さいころから先生のお名前だけはよく父から聞かされていた。合氣道の達人で凄い人がいるという話だった。父のほうは柔道出身で旧制中学時代には白帯で団体全国優勝をしたほどの猛者だった。その後、頭山満や内田良平に師事し、戦前は石原莞爾氏との関わりで機密情報員として満州に渡り、満州某重大事件に関わるなど情報収集活動に従事していた。その後は後任を児玉誉士夫氏にゆずり、国内で神兵隊事件や東条首相暗殺計画、平沼首相暗殺計画に連座。いずれも未遂に終わったがその関わりで各地を転々としていた。
中野刑務所を出獄後、右翼の大川周明氏と福島の滝場で行をしていたが、偶然にも同じく行に来ていた藤平先生と巡り合ったという。当時先生は大川塾で合氣道の出張指導をされていて、その縁で3日間飲みかわしたという。その時の印象がよほど強烈であったらしく私も何度もそのときの合氣道の話を聞かされていた。
父の友人からも同じような話を聞かされたことがあった。その人も柔道出身の六尺以上の大男だったが「いやー、本当にすごい武道だよ。小娘と思って油断もしたんだが、とびかかっていった瞬間、小手をひねられあっという間に投げ飛ばされていたんだ」というのである。信じられない話だったが世の中にそんな不思議な武道があるものならぜひやってみたい、と子供心に思ったものだった。
高校に入り私は剣道部に入部した。武道は元来好きだったせいか結構熱心に稽古し、大学受験が迫ってもクラブ活動はやめず担任や周りが騒ぎはじめた。それでも無視していたところ業を煮やした母親が最後に父に訴えてしまった。父が私を呼び一方的通告をしてきた。要するに浪人をさせるつもりはないとのこと。現役で受からないときはその時点で大学はあきらめるようにとのことだった。最後に、「その時には合氣道の藤平君のところに内弟子に入れるつもりなどで、その覚悟でいなさい」と言われてしまった。
父の命令は我が家では絶対であったため逆らうことはできない。私は受験前3か月から猛然と受験勉強に入った。家庭の経済状況からいって国立大学に入ることが第一条件であったが私自身は私学のW大学が志望であった。そのためW大学合格通知後、国立大学の二次試験答案を白紙で提出してしまった。早速家族会議が開かれ非難囂々の兄弟たちの中で針の筵に立たされた。私はひたすら両親に懇願し授業料を自分でまかなうという条件で、入学を許可してもらうことになった。1970年代の大学紛争の時期であった。

大学では長年の夢であった合氣道の会に入部した。しかしながらどんな存在かあこがれていた藤平先生に、直接手ほどきを受ける機会は殆どなかった。先生はその頃海外に出張されることが多く、この世界では神様のような存在であったため、たまに日本に帰られても学生の身分ではただ遠くから拝見するだけであった。学生紛争が激しくなるにつけ、授業がないのを幸いに私は合氣道の稽古に集中していった。クラブだけでは物足りず、近くにあった本部道場やその他の町道場にも顔を出し一日8時間くらいの稽古はざらであった。しかしながら稽古を重ねれば重ねるほど疑問が湧いてきた。成程合氣道の技は武道も何も知らない素人相手には良く効くのだが果たして他の武道に対して本当に有効なのだろうか?と。 私は他の武道をやっている連中に片っ端から挑戦してみた。柔道に対してはかかってくる前にうまく関節技をかけることができればよいがつかまれてしまうとどうしようもなかった。剣道に対しては逆に相手のふところに入ってしまえば処理できるのだがその前に叩かれてしまう。空手やボクシング相手にもやってみて、うまくいく場面もあったがたいがいは動きが早く手首はつかめずその前にノックダウンをくう。これはダメだと思った。大体合氣道は試合はなく型を練習する武道なので、お互い同士でも段々強くなると頑張りあって投げられなくなる。相手にも触らず投げるなど夢のような話であった。何かが違う。本物が知りたいと願っていたちょうどそのころ、先輩が「片岡、面白いところがあるから行ってみないか」という誘いがあった。一九会道場という山本鉄舟の流れをくむ禅、禊の道場である。

「三日間ただ大声を出していればよい。酒も飲み放題」という口車に乗せられ、興味本位に道場に出かけたが、行ってみてすぐに先輩に騙されたことに氣づいた。他に仲間が十人ほどいたが、皆半ば強制的に連れてこられた者ばかりであった。荷物や金銭、靴など取り上げられ白装束に着替えさせられ逃げ出すわけにもいかない。まあ乗りかかった舟と思い始めてみたが、とにかくひどい荒行であった。朝4時にはたたき起こされ一日中祝詞の文句を大声で叫び、少しでも声が小さくなると周りから先達が寄ってたかって背中や顔や腿を平手で叩きまくる。正坐で行うが一日10時間も行うため膝は痛い、背中は腫れあがる。声はかれて出なくなるでヘトヘトになった。それが三日間続く。とうとう二日目に脱走者が出た。三日目には隣でやっていた男が泡を吹いて失神してしまった。それでも何とか三日間の行を無事終え最後の日には小宴を催してくれた。その時のお酒が先輩が言った飲み放題の酒かとようやく解る。後で聞いたところ、ここは素人の行う荒行では日本一だとのこと。家に帰りついてから二日二晩死んだように眠り続けた。

しかしこれが癖になり、私は学生時代ほとんど毎月この道場に通い詰めるようになった。この道場で行っている呼吸法が、現在心身統一合氣道で「氣の呼吸法」として継承しているものである。でも不思議な効力をもたらすことが分かった。この時以来、私は酒を飲んでも悪酔いすることがなくなり、一日2時間くらいの睡眠でもその当時平気でもつようになったのだ。ある人はこの呼吸法を続けていたところ、40年来の水虫が治ったという。C型肝炎が治った、血圧が下がったという例も数多くある。
当時、呼吸法と合氣道がどのようにつながっているのか分からなかったが、その道場での行が終わってから合氣道の稽古に行くと、普段投げるのに困難な相手を不思議に簡単に投げることができる。今から思うとリラックスできていたのだろう。この一九会道場で伝説的な修行をした人がいて、いつも道場の奥様からその話を聞かされていたのだが、その人物が奇しくも藤平光一先生であった。
勉学という点では決して真面目な学生ではなかった私も、紛争という時代背景の中で将来の進路を決定しなければならない時期にきていた。いたずらに時が過ぎゆくうち、クラブの一年先輩で今はサンフランシスコで合氣道の道場をやっている人の口添えがあり、私は長い間の念願であった藤平先生の下に入門することができた。

先生はすでに合氣道の技ではなく、氣の原理を純粋に研究する会を主催されておられ、そこには企業の経営者、学者、医師、弁護士など様々な会員がいて、作家の宇野千代さんなども来ておられた。
先生の肉体は私が想像していた通り超人的強さを保持していたが、そこでは肉体の理よりむしろ心の理を中心に「「心が身体を動かす」という原則に基づき、すべてを明快に説いておられた。合氣道の理についても同様であった。「相手の肉体を動かそうと思うから難しい。相手の心を導けば自ずから身体は導ける。ちょうど椅子に腰かけようとする相手の心が椅子に行った瞬間に椅子を引けば相手がどんなに大きくても転がる」と。「ただし相手の心を導く前に自分の心がコントロールできてなければ相手の心を捉えることはことはできない。自らの心と身体を統御することこそ最も大事なことである」と説かれた。肉体の動きばかりにとらわれていた私には、初め何のことか分からなかったが、先生は実際に体で行ってみせた。なるほどその通りだった。ようやく私は相手の身体の動きだけではなく、相手の心を見る余裕もなかったことにも氣づいた。

先生は「心にはプラスとマイナスがある」とも説かれた。「氣を出すのはプラス、氣を引っ込めるのはマイナス。この世は相対的世界であるからプラスも事実ならマイナスも事実。どちらが正しいと誰もきめることはできない。神は愛なりも真実なら、天地無情もまた正しい。それを決めることができるのは本人自身の心次第で、どちらが好きかという問題だけだ」と。「明るい生き生きとした、楽しい成功する人生を歩みたければプラスを選べばよいし、暗いじめじめした不健康な人生を選びたければマイナスを選べばよい。東へ行きたければ東に向いて歩めばよい。西へ行きたければ西に向いて歩めばよい。ただし、西に向いて歩みながら東へ行きたいというのは間違いである」と。
簡単な理屈であったが、絶対的強さや真理ばかりを探究していた私には、頭から冷水を浴びさせられるほどショックであった。そうだ、なぜ今までそんな単純な理に氣づかなかったのだろうかと思った。私はそれまでの考えをすっかり切り捨て、先生の下に飛び込む決意をした。
昭和48年、まだ海のものとも山のものとも分からない氣の研究会に入職。それから45年、現在は心身統一合氣道会と名称を変え、氣のブームに乗って国内だけでなく、海外22ヵ国3万人の会員を擁する会になっている。

生涯の師を初めて紹介してくれた父は、30数年前、腐敗しきった日本の政治組織を改革しようと全国を行脚し、有志を集め伊勢の地で全国有志連合会という会を組織し、その結成大会の壇上で演説中に倒れ他界してしまった。その後何度も、今生きていればと思わない日はなかったが、父が成しえなかった道を代わって歩んでいると考えれば、数々の親不孝も許してもらえるのではないかと思う。