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東井悠友林

~Covid-19 感染症に罹って(2)~     


     いなべ総合病院名誉院長
        水野 章


 コロナに罹った人が口を揃えて言うのは「その怖さ、不安、辛さは罹った人にしかわからないでしょう」という事ですが、実際の闘病生活はどんなものか綴ってみます。

(いつどこで感染したのか?)
 潜伏期は2~14日で、中央値は7日です。症状が出た日から14日前まで遡って、どこで感染したか推察し、場所を特定します。また症状が出た日の2日前から7日後まで他人に感染する危険があるので、接触者を特定して調査や検査をすすめます。濃厚接触者には接触日から2週間の隔離を要請します。これらが病院と保健所の仕事です。感染者が少ないうちは機能しますが、多くなってくるととても人力では追跡できませんので、感染経路不明が増えてくるのです。

(陽性が判明)
 11月4日の夜から持病の肋間神経痛や片頭痛が今までになく酷くなり、痛み止めを内服しないと我慢できないほどでありました。
 翌5日から何となく身体がだるく、少し喉が痛く、気道に風邪様症状があり、自分の部屋でビデオを見てゴロゴロしていました。風邪症状は2~3日でなくなり、体温は37℃前後で身体のえらさもありませんでした。数日間自宅で変わらぬ日常を過ごしました。
 9日の朝。いつも私がコーヒーを入れるのですがこの日はコーヒーの香りがしなく、おかしいなと感じましたが、食欲もあり普通に元気でしたので、午前中仕事もして過ごしました。
 10日(発症から5日目))の朝、やはりコーヒーの香りがしないので、午前中仕事をしてからPCR検査をしたところ、陽性と分かりコロナ感染が確定しました。その場で入院となり、何の準備もできずに病室に閉じ込められ、隔離状態となりました。
 PCR検査陽性と判定された時点で自分は汚染者で、悪く言えば「汚いもの」扱いで、自尊心を大いに傷つけられます。病室に入ると一歩も外に出られない不便な生活が待っています。一旦、自宅に帰って入院の準備をして戻ってくるという事ができないのも、一層拍車をかけます。自分の勤務する病院への入院でしたので、一般の方と多少は違うかもしれませんが、院内の友人に身の回りの物を購入してもらい届けてもらいました。そして自宅に電話して不足の生活用品(下着、パジャマ、着るもの、バスタオルなど)をスーツケースに入れて郵送で差し入れしてもらいました。

(隔離療養生活に)
 いよいよ病院での隔離療養生活が始まります。ホテルでの隔離生活とは違うでしょうが、私の療養生活をお知らせしましょう。食事はお弁当形式で、感染防御のガウンをまとい、N95マスクとゴーグルを付け、二重に手袋をした看護師が毎食、部屋(個室)内のドア近くのテーブルに運んでくれます。その時、体温、酸素飽和度(SpO2)、血圧、症状を聞いて看護記録に記載していきます。朝の採血もそのテーブルで行います。看護師と接する時は必ずマスク着用です。ごみ袋をくれますので、ごみは毎日ごみ袋に入れて出します。私はモニター患者の役割もあったのか、高齢者で重症化の懸念があったのか、入院して2週間は毎日血液検査をして経過観察をしました。肺のCT検査も2~3日に一度は検査して経過を観察してゆきました。それだけ急変する高齢者が多かったという事でしょう。食事のない時間帯はインターホンでいろいろ症状を聞かれます。私が医師だったためか計測はすべて自分で測定して報告するだけでした。よく言えばできるだけ看護師と患者が接触しないように配慮されていました。当院では、お茶のサービスはありませんが、お金さえ預けておけば、朝、依頼すると、手のあいた時に病院一階のコンビニで購入して、部屋まで届けてくれます。飲み物、ミカン、アイスクリーム、マスク、携帯充電器、コップ、歯ブラシなど必要時に購入してもらいました。このサービスにはとても助かりました。毎日3回換気のために窓を開けるよう、放送が入りますので窓を開けます。唯一、外部との連絡用ツールはスマホだけです。21時には就眠しましたが、いろいろな考えが頭を巡って寝られません。頻回に尿意もあって、結局入院して3日間は1時間おきに起きていたように思います。

(11月11日・発症から6日目、入院の翌日)
 次第に食欲が無くなり、「食べなくては!」と思っても一向に箸が進まない。娘や家内に励まされて「生きるために一生懸命食べなくては」と思って箸をつけても、1分も経てばもう食べたく無くなります。頑張っても1/3 食べられれば良いほうでした。
 高齢者で肺炎併発という事でアビガン(日本のインフルエンザの薬で副作用が多く、他剤で効かなかった時にのみ許可されたもの)内服が始まりました。最初は一度に9錠も内服しなければいけませんがコロナの特効薬はありませんので、副作用も何のその「神頼み」のようなつもりで内服しました。気道の炎症を抑えるステロイド吸入薬も開始しました。最高体温が38.4℃まで上昇した時は解熱剤を内服しました。
 味覚*1 は1週間で少しずつ戻り始めてきましたので、少しは回復が始まったのかと期待をしましたが、嗅覚は全く戻ってきません。匂いがないと食べ物は全く美味しくありません。深呼吸しても十分な空気が肺内に入って来ないのがよく分かります。加えて努力呼吸をしないと、満足な肺の拡張は得られないのも実感できました。
 残念ながらアビガンは奏功せず、2日後(13日)に撮ったCTでは肺炎はさらに拡散し、両肺がスリガラス様に曇ってきています。いよいよ典型的なコロナ肺炎が増悪し、食事とテレビとトイレだけで後はベッドに寝転がっている日常になりました。何事も全くやる気にならず、いつも見ているテレビ番組も面白くなく、ただベッドに寝転がっている時間が多くなってゆきます。小説もノートPCも持ち込みましたが、全く開く気にすらなりません。
テレビで見たように下着は自分で洗面所で洗濯し、使い回してゆけばよいと考えていましたが、とてもやる気になれません。
 担当医から家内に電話が入り、現状の説明があり「高齢者でもありますので、まだ予断を許さない状況です。当院では中等症までしか診られませんので、これ以上悪化してゆけば次の高機能病院へ転送します。」と説明がありました。私に直接言えないことも言っているのだな、と疑惑の気持も出てくるし、怖さも倍増でした。

*1 味覚最初に分かったのは人参の甘みでした(発症後6日目)。とんかつのタレ、ごま油の味なども分かりました。発症後7日目に分かったのは副菜の塩味、ご飯の味でした。分かってくると、肺炎も治ってきているかしらと推察され嬉しかった。次はみそ汁とキーウィの酸味でした。

(11月14日・発症から9日目)
 自覚症状では多少良くなってきているかと自己判断し、期待もしていました。
 だが、肺炎は入院時より進行し15:00酸素飽和度*2が93%になったので、経鼻で1ℓ/分の酸素投与が始まりました。たとえ1ℓ/分でも酸素を吸えばすぐ98%まで上がります。ゴロゴロしていると意外にも身体はえらくないのですが、酸素を外して歯を磨いたり、シャワーを浴びたりすると、さすがに息切れがして、自分はひどい状態であることが確認できました。そうなると、このまま次第に体力が弱まり死んでいくのだという後ろ向きの考えが、頭をよぎるようになります。
 アビガンでは目に見える効果がないという判断で夕方からアビガンの内服を中止し、レムデシビル(アフリカで流行ったエボラ出血熱の薬)の点滴に変更されました。全身状態を良くするためにステロイドや、逆にステロイドの副作用でおきる急性胃潰瘍を予防するお薬、細菌性感染症を予防する抗生剤に加え血栓形成予防のお薬など、一気にお薬が増えました。これで効かなければ、人工呼吸器管理やエクモ装着になってゆく筈です。夜から、緊急時に対応するため就眠時には酸素濃度計と心電図モニター*3を装着して就眠することになりました。(怖いな!)

*2 酸素飽和度(SpO2): 動脈血液中の血液にどれ位の酸素が取り込まれているかを意味します。指の爪に小さな装置を挟むだけで簡単に測定できます。正常は98%以上ですが、健康な人が息を止めて1分間我慢できたとしても、1%下がるのがやっとです。それが95%以下になるということは、とても苦しいはずです。

*3 酸素飽和度測定器と心電図モニターを装着する意味 :看護ステーションでモニターに異常が出れば警告が鳴ります。心拍が正常でSpO2だけ下がる時は呼吸機能の低下。心拍が0になればモニターが外れた時。心拍もSpO2も両方低下する時は重大な呼吸機能不全になった時などを判断します。常時装着はトイレに行く時などは外したり、付けたり結構煩わしいものです。

(11月15日・発症から10日目)
 コーヒーの匂いが少し分かるようになってきた。食欲も出てきた(主食は5割、副食は10割)。顔色も良くなってきた様だ。会話も積極的になってきた、と看護師は思ったそうです。「少し活力が付いてきた気がする。これは改善傾向が出てきたのか、ステロイドによる見かけの作用か?でも大便をする時、気張ると呼吸がえらくなったので、やはりまだ改善ではない?」と自己判断が交錯していました。

(11月16日・発症から11日目)
 「今日のCTの結果で悪ければ高機能病院へ転送されるか、このままこの病院で治療を継続するのかが決まる。息苦しさはないけど動いた後は少ししんどい程度で、気分的には改善してきているように思えるのだが。気になるところだ・・」と思っていました。
 酸素濃度は酸素を吸っていれば97%前後、吸っていないと95%前後まで低下するので、呼吸機能はまだ良くありません。検査の結果、今朝の血液検査でも悪化は止まっていないし、CT画像でも肺炎は増悪傾向で治癒傾向が認められません、などと説明を受けると、いよいよ気分が落ち込んできます。自分のCT画像が何とか見られないかと模索している夢まで見ました。家内に電話して、私が管理する預金通帳の場所、印鑑とその場所、暗証番号などすべて教えました。また自分の死に関していろいろ考えるようにもなりました(思考は前回に掲載)。でも後輩から寄せられた「絶対に回復してください!」というメールや病棟看護師がお弁当に添えてくれた励ましのメモには癒されました。

(11月18日・発症から13日目)
 この日「血液検査結果では、一部まだ悪化しているが改善している項目も出てきた。CT画像で肺炎の拡散が止まった所見が認められる」との説明を受けました。
 「ここで薬の効果が出てきたのか?症状との乖離はあったがやっと復調の兆しありといったところか。食欲も出てきてなんとか10割食べられるようになってきた。味覚も戻ってきている。嗅覚もコーヒーなど一部を除いて分かるようになってきた。いける!!」 初めてそう思ったら、目の前が急に明るくなってきました

 その後は日に日に良くなり、11月23日、酸素投与も終了、心電図・酸素飽和度モニターも外して生活できる様になりました。
 入院期間中一貫して発熱もたいしたことなく、肺炎の辛さも痰が詰まって苦しい症状もなく、すべての症状がそれほど強くなく来られたのは幸いでした。深呼吸すると胸の奥の方が痛いのは肺が裂けているのではないかと思うほど不安な症状です。後遺症としては息切れ、深呼吸時の胸痛、腰痛、筋力・気力の低下、抜け毛でした。

(最後に)
 退院後3か月経過した後でも多少の息切れ、筋力の低下、体重減少がありますが、今後は自己努力で改善してゆこうと思っています。
 最後に、いなべ総合病院では一病棟を完全閉鎖病棟にし、保健所と連携してコロナの患者だけを既に100名以上受け入れて診ていますが、一例も院内感染を作らず、一件もクラスターの発生をさせずに来ている完璧さに敬意と感謝を表します。そして孤独な闘病生活をして分かったことが二つあります。
 一つは「私たちは当たり前の日常を何気なく過ごしていますが、その一日が何事もなく過ごせたことが、実は一番の幸せである」ということに気付きました。
 もう一つは「日頃は勝手気ままで減らず口の女房ですが、やっぱり生涯のパートナーであり、大事にしなくては!」ということです。

 国の施策は全体を見た一つの判断で、必ずしも各々に十分配慮されているとは言えません。
従って、皆さんには自分にあった対策を施し、自分の健康は自分の力で守って頂きたいと思います。