中学時代(5) |
中学2年の夏休みが終わり、二学期が始まった。 また、面白くもない殺伐とした学校生活が続くのか。 私はそんな憂鬱な気分になりながら通学していた。 私と同様に、義務教育だから仕方がなく通学しているような暗い表情の生徒が、クラスの、 いや学年の半分ほどはいただろう。 仲間意識がなく、クラスがまとまって朗らかになる瞬間は、休憩時間でも放課後でも余り 見当たらなかった。みな黙々と通い、大人しく授業を受け、さっさと下校する毎日だった。 当時の中学では、部活をしている生徒は殆どいなかったし、部の数も非常に少なかった。 先生たちも「団塊の世代」で膨れ上がっている校舎内の大量の生徒には持て余し気味で、 自ら生徒を叱咤激励して指導する「熱血先生」など、皆無だった。 そうした学校全体の沈滞した雰囲気を作っていた要因は、何だったのか。 第一には、中学校の生徒たちがちょうど子供から大人に成りかける、心身共に不安定な 「思春期」に当たっていたこと。そして「第二次反抗期(13~14歳頃)」に入り、自 我意識が強くなり、親や先生の言うことに反発し、周囲の者に何かと反抗的態度を取りた がる年齢だったこと。 第二には、生徒の中でも自我意識が非常に強くなり、家庭や学内でのうっ憤を晴らすはけ 口がなかったりする生徒は、肉体的(性的)エネルギーの蓄積と相まって、先生の言うこ とを聞かないどころか怒り返したり(注・すでに2年の夏休み前、体育の先生(男)の一 人が、数人の生徒に襲われて乱暴された事件があった)周囲の生徒に当たり散らしてモヤ モヤした不満を晴らしていたこと。 その象徴が「イジメ」で、これは特に「団塊の世代」の先頭を走る2学年に、際立って多 かったと思う。 そして第三として、そうしたイジメや反抗的態度を繰り返す生徒を諫める者が、先生の中 にも生徒の中にも誰もいなかったこともあげられる。 後年、私はそう考えた。 2学期が始まって間もない日だった。 私は、いつもの道を辿って下校していたら、途中で、またKたちと出会ってしまった。 彼ら数人は、平屋の木造住宅が何軒も並び立つ、社宅地を囲む板塀の前で騒いでいた。そ れらの戸建ての社宅は、近代的な3階建ての鉄筋コンクリート造りの集合住宅に建て替え られるため、その時は誰も住んでおらず、解体工事が始まる前だった。 私は何をしているのか眺めながら通り過ぎていた。彼らはみな、薄い板塀に向かって、拳 骨でバリバリと突き破って遊んでいたのだ。 するとまたもやKが目ざとく私を見つけ「おい、東井も来いよ。お前もやれよ。面白いぜ」 と誘った。 私は一瞬「喧嘩をするわけではないし、どうしようか・・」と立ち止まっていると、「早 く来いよ!」と言いながら、自慢げにコブシを板に突き刺した。 その時。またもO君をイジメていた出来事の時と同様の事態になった。 向こうから大きな二人の男が走ってきた。 二人とも4中の3年生だった。 1人はNさんで、私の家の近くに住んでいて、私のところとは親同士が仲が良かった。バ レー部の選手だった。 二人は「お前ら何をしているんだ!」と大きな声で怒鳴りつけ、Kたち一人一人の頬を、 素早く平手で思い切り張った。 すごい激しさだった。もう一人の人が私に向かってきたが、Nさんが「そいつはいい! 東井、帰れ」と声を出した。 私は小走りに走って帰った。 そんな出来事があって、私の意は強まった。 「やはり、強くなければだめだ」と。 それから空手を長年習っている級友の辻君(注・「バス・ストップ」を歌ってヒットさせ た、歌手の平浩二に似ていた)に頼み、空手を教えて貰った。 私の家の裏に大きな杉の木があり、その木に荒縄を幅広に巻き付け、毎日下校してから荒 縄に向かって腰をすえ、両足を踏ん張り、コブシを何度も叩きつけて鍛えていた。相撲の 稽古みたく、荒縄を巻いた杉の木を左右の手で交互に押す「てっぽう」も繰り返した。 日ごとに身体全体に力がみなぎってきて、辻君に型を習い、相手との攻守を想定して訓練 した。 辻君は「おい、今度彼らが絡んできたら、やってしまおうぜ。 相撲とかじゃなく、空手でやったら、いちころだよ」と息巻いていた。彼は蹴りも上手だ った。私も「そうだな」と燃えてきて、右足での蹴りを繰り返した。 しかし卒業まで、空手を発揮しての、彼らとの喧嘩の機会は一度もなく、不思議とKから、 いちゃもんをつけられることは無くなった。 10月1日の誕生日がきた。私は14歳になった。 しかし、自分は何も成長していない、何も誇れるものがないという寂莫感しか感じなかっ た。 毎日の生活で「楽しい」とか「うれしい」とか「感動した」とか「晴れ晴れとした」とい う気分になることは、極めて少なかった。ましてや「僕はやったぞ!」という充実感は、 中学2年以降、一度もなかった。 それは、自分に自信がなかったからだ。将来への希望や目標がなかったからだ。 そんな日々が交通事故から6か月続いていたある日、私は誰もいない家の父の書斎の椅子 に座って、父に郵送されていた何冊かの本を見ていた。すると「中心」と題した月刊誌が 目についた。何気なく開いて読むうち、簡潔明瞭なエッセイの一言一言に魅入られて、夢 中に読んでいった。 こんな一文もあった。 「人間は、絞って空にする。そこですべての親切が受けられる。めぐみを受けることので きる条件が出来上がる。心を配る。汗をしぼって働く。人のために力をつくす。知恵を絞 る。出し切って自分を空にする。それが天地の恵みを楽しく受け入れる資格となる。よい 運命の源となる」 「どんな隅でもかまわない。照らしてゆける心になりたい。 世の中の隅にあってもいい。その人がいるところは明るくなり、感謝と尊敬と信頼が集ま るほどの人になりたい」 私は、思わず心が震えるような感動に襲われ、涙を浮かべながら覚醒した。 著者は常岡一郎氏で、発行元は氏が運営する中心社という修養団体(昭和10年創設)だ った。中心社は養護施設(児童養護施設)や養護老人ホームなどの社会福祉事業を実施し ていた。 また氏は中心社の主幹として「運命をひらく」など数多くの書籍を世に出していた。 (注・すでにご逝去されているが、現在は稲盛和夫氏らの財界トップや教育者等の書籍と 共に、致知出版社から氏の著書「常岡一郎一日一言・運命をひらく言葉」が刊行されてい る。 氏が89歳の時、私は羽根田武夫氏が創設した「高級旅館・熱海石亭」で、氏の紹介で懇 談・痛飲したことがあった。お元気だった) 常岡氏は、元来、天理教組織における要職についていたが、昭和25年に参議院議員とな り、2期12年間、国政に参画されてきた。その後は前述の中心社における活動に一生を 捧げられた。 (注・天理教は、戦前、国家からの激しい弾圧を受け、宗教団体として一派独立の承認が 得られずに来た。 そこで、終戦後の1946年、戦後初の衆議院議員選挙が行われたとき、教団は「国から 戦前のような目に合わない方策」(注・推察)として、2人の候補を立てて当選させた。 その時に当選した2人のうち1人が東井三代次といって、私の遠縁にあたる人で、3期務 めて引退した。 教団は翌年の参議院議員選挙にも関わり、2人の当選者を出し、それ以降も衆参両院で4 ~5名の議員を確保していたが、1950年代半ばに、そうした試みを一切やめていた。 それは日本国憲法が公布され信教の自由が認められ、宗教法人法に基づき、天理教も正式 に宗教法人として認可されたから、政治への関わりは無用になったからだ、と推察される。 時の教団トップが「政教分離でいく」と裁断したのだ) 常岡氏の本を読み、私は目が覚めた気がした。 私の人生の貴重な「原体験」となった、と今でも思っている。 それからの日々は、気が沈んできたら、身体を動かす。家の中の掃除でも庭の掃除でも、 何事も一生懸命やっていると無心になれた。 すると、学校に行くのも気にならなくなり、徐々に友人も増えて行った。きっと表情が明 るくなり、行動も生き生きとしてきたからだろう。 母も退院して帰宅し、家の中も活気が出てきたからだろう。 そして、いつしか事故から1年たって、3学年の春を迎えていた。 クラス替えで、3年のクラスのメンバーにワルは一人もいなくなった。おだやかな毎日が 続いた。 私は学業成績はかろうじて中の上ぐらいまで復元し、クラス委員の選挙では、次次点(3 位)で「風紀委員」という委員の末席に着くようになっていた。 多くのクラスメイトは、男らしさ、女らしさが漂ようようになっていた。 私は全く奥手だったが(注・家には雑誌類は無く、私も本を買うとしたら、「中学3年コ ース」とかの学習図書ぐらいだったから、まだ思春期の初期ぐらいにいたのだろう) だが、2学期になると、こんな状態が生まれた。 授業中、私の席の二つ横で一列後ろの席のTさんを、何となく見てしまうのだ。右横に顔 を向け、目先をほんの少し後ろにする。すると誰にも遮られずにTさんの顔が映るのだ。 特につまらない静かな授業になると、見てしまう。 すると、Tさんもこちらの目線を受け、すぐに伏せる。 そうしたことが何日か続くと、今度はTさんの目線を感じるようになり、さりげなく目線 を向けると、しばらく見つめ合って、お互いに目を教科書に移していた。 Tさんは、静かで上品なお嬢さんタイプの性格で、クラスでは目立たない人だったが、色 白でふっくらとした顔つきは学年で一番綺麗だと、私は後年になって思った。 でも、当時は「好ましい人」とは思っても、「好きだ」とか「愛している」などという感 情は、全くなかった。いや、そういう感情というものは知らなかった。 でも、何となく見つめてしまう。 向こうもこちらの目線を受け入れている(と思っていた) 数秒でも目線を合わせているだけで、私は言いようのない甘い疼くような感情が湧き上が ってくるのだ。 だが、一回も親しく会話することなく、卒業してしまった。 あれは、恋、愛、恋愛、思慕、愛情、恋情、、何だったのだろうか。初恋、片思い(片恋)? いや、そんなものではない。教室を出たらすぐに忘れるし、家で思い出すこともなかった。 また会いたいとは一度も思わずに来たのだから。 でも、このエッセイの2018年7月付の「緑陰の人(上・下)」で述べている、大学の クラスメイトだったGさんとそっくりだったと、いま気が付いた。 3学年は、誰もが高校進学を控えていて、それぞれが目標に向かって日々を送っていた1 年間だった。 私は親の勧めで(注・「教会の子弟は授業料免除、卒業後の寄付金での返済制度」があっ たから?)天理高校に進学する肚を決めていたので、気が楽だった。 そして、大和での新たな生活に希望を抱きながら日々を過ごし、翌年の春、天理に向かっ て旅立った。 追記。 中学を卒業して4年後の19歳の春(昭和42年3月)、私は天理高校卒業後、初めて天 理に行った。 そして多くの友人や後輩、恩師などに会って、再会の喜びに浸っていた。 その3月26日。私が神殿前の道を急いで本校舎に向かって歩いている途中、突然、声を かけられた。 声のほうを向くと、中学生ぐらいの背丈の男が寄ってきて 「東井・・君じゃないか?」と尋ねた。 「ああ、そうだが。君は誰だ?」 「あの・・4中の時に一緒だったKだけど」と小さく返答した。同じ背丈の小さな男が二 人、一緒だった。 私はまじまじと見つめ続けたが、どうしても似ていない。 身体つきも貧弱で、せいぜい高校1年の低いほうの生徒にしか見えない。 「えっ、K?本当かよ?何でここにいるんだ?!」と聞くと 「バス団参で神殿参拝に来たんだ」 「どこの団参だ?」 「地域の教会の人に誘われて」 私は、高校3年間の間、毎週の体育の時間にラグビーと柔道を練習し、寄宿舎では時間が あればバーベルを持ち上げていたので、「こいつら3人だったら、強烈なタックルをかま すか、柔道の足払いで倒せば、どうということない。やるか」と一瞬考えたが、向こうに その気は全く無かった。 この日は春の大祭日だった。 「そうか。バス団参か。ご苦労さん。東京に戻ったら遊びに来いや」そう言って別れた。 もう一つの後日談。 私が22歳の4月。 土曜日の夕方、目黒の地元バス停前を歩いていたら、バスを待つ行列の中に、ひときわ目 立つ白いスプリングコートを着た女性に目が行った。 Tさんだった。 私が近寄って「Tさん、お久しぶり。覚えている?」と聞いた。 「ええ、東井さんでしょ」 「その辺で少しお茶でも飲んで話さない?」 「駄目なんです。私、来週結婚式を挙げるので、今から渋谷に買い物に行くところなの・・」 「そうか!結婚式か。それはおめでとう・・・お幸せに!」 そう言って別れた。 さらにもう一つの後日談。 私が42歳になった、平成元年(1989年)。 私は、天理教組織(注・厳密に言うと上級教会にあたる大教会籍)から離脱した。 「これからはサムシング・グレート(注・何か宇宙の偉大なるもの。神)を心に抱いて、 限られた人生を悔いなく生きて行こう」 そう決心して別れた。 中学時代。 あらためて振り返れば、人生における最初の辛い試練の時季だった。しかし、その憂愁に 満ちた思春期があったからこそ、その後に続く青春期が、光り輝く季節になったと得心し ているのです。 二度とない、たった一度の人生。 今は、後期青春時代の真っ只中にいるようです。 それでは良い週末を。 |